深みの外出。その22。

ポケモンGOヤバいよねー(笑)拡張現実ってのを初めて知ったけどまさにこれやん!っていう。俺がやってるのはこれの認識バージョンなんだけどリアルにバーチャルリアリティとしての拡張現実ってのが成立してんのねって話だよね。


http://jp.wsj.com/articles/SB11799496104607273993204582184070636963432


http://wired.jp/2016/07/15/psychology-pokemon-go/


こんなの素敵過ぎないか。拡張現実でゲームやっててそれでリアルで知り合ってデートとか素敵やん。いや、これなんだよね。認識が自分の行動や外界との接触のあり方を変えるっていうポケモンGOの場合、それがソフトウェアでガッツリそうなるわけだけど拡張現実ってようは認識だよね。例えば何でもいいんだけど色んなところの自販機を撮影!とかさ、リアルに今までにない自分の中での価値とかさ、まぁあと散歩とかでもいいんだけどポケモンGOが散歩を促してるとか最高だなって思うんだけど別にこれってポケモン無くてもいいんだよね。


逆を言えばポケモンがあるだけでこんなに世界が変わるなら世界に救いはあるでしょう。色々と動画見たけどみんな楽しそうだもんね。まぁ俺の図書館通いもこれみたいなもんだからな。んでまぁ眼鏡買うとかスニーカー買うとか洋服買うとかっつーのがまぁようはアバターの外見のアクセサリ変えるみたいなカスタマイズ感覚になってるっていうさ、そう現実を捉えて外出するってのが意外に良いってことなんだよね。まぁようはレイヤーですよね。色んな現実のレイヤーがあってそれは拡張現実によるものもあれば勝手に自分で認識によって拡張したりするものもあればまぁようは色々と余地があるってことだよね。ブラマヨの番組に瀧っつーかピエール瀧って言わなきゃあれか(笑)電気知ってる間だと瀧だけど書く場合はピエールって書かないと分からないよね。まぁそれはともかく深夜に散歩しつつ写真を撮るっつーのをやっててさ、今もやってるのか分からないけど恐らく瀧も同じような違うレイヤーの考え方で拡張現実としての普段見えない深夜の町中っていうフィールドを歩くっつー楽しみをやってるんだと思うよね。


まぁ結局これって本人の知覚次第っつーか感覚次第だから別にソフトウェアに依存しないよね。まぁポケモンってのがあるからあんだけ燃えることができるってのはあるにせよ新しい現実の知覚の仕方ってのを凄く分かりやすい形で提示できてるのは間違いないよね。でもポケモンGOなんだけどさ、あれって原理的に現実にあるものを端末からの操作で動かすとかってまぁそりゃ現実的には無理だけど技術的には可能だよね。これって凄いよね。バーチャルなもんがリアルをハックしてる感じなんだけどでもあくまでそれもリアルがあってのものだしバーチャルだけでは成立しないという意味でハイブリッドなリアルだよね。


いや、日本でどうなるのか楽しみだよね。んでまぁみんなやるんだったらさっき貼ったWSJの記事みたいに「いいなー」と思う男子なり女子がいたら声かけてみてほしいよね。こういう拡張現実が男女の出会いにどう影響を及ぼすがすげー楽しみだわ。単純に外出るやつが増えれば出会いの蓋然性が増えるからね。元々引きこもりみたいなやつも病的じゃなければゲームをきっかけに外に出る可能性があるってのがロマンのポイントだよね。


まぁそんな感じで続きね。


あ、んでさっき書いた大澤真幸なんてそんなものだらけで本当に酷いよね。國分功一朗は相変わらず古臭い文系のやり方を取っていてもまだクオリティが高いからいいけどそれで内容がクソってことになるともう助けようがないよね。何も得られないということが自明すぎるのと概念エラーを起こしている人が論じていることなんてたかが知れてるもんね。いや、そういう本なんて手に取ることもないんだけど図書館っつーきっかけがあってまぁ手に取ったり実際に借りてきたりしてまぁチョイスが悪かったのかもしれないけどまぁ本当にそういうの多いよねっていうね、別にそれはあれだよね、日本の学者のクオリティが低いとかじゃなくて欧米でもずーっとそれはやってるからね。何々をカント哲学で考えるとかニーチェで何を読むとかさ、勝手にやってろって話なんだけどね(笑)もう本当にくだらないと思うわ。


そういう既成概念の流用とかただの文献学なんて本当に意味ないよね。だから実際誰も読まないし人気も無くなるんだと思うんだよね。ただね、実際のそのソースとされるような哲学者は言うまでもなく自分で考えてますよ。何々曰くとか何々によれば・・・ってことじゃなくてそのハイデガーにしても自分の体験を元に退屈ということを分析してるからね。だからこそそういう哲学者を見習え!って思っちゃうんだよね。自分で考えるべきだから自分の経験とか友人の話とかさ、それについてどう感じたか?とかどういう風に思うか?だよね。その中でハイデガーの退屈論が役に立つから使うってのなら分かるけどハイデガーの退屈論に依拠した退屈論だとそれはハイデガー論だからね。退屈論ではないんだよね。もちろん言及されているのはハイデガーだけじゃないんだけどまぁ当たり前だけど大体まぁ哲学者とかの言説だよね。狭いってそりゃ(笑)


だからあれなんだよね、哲学者っつーか哲学学者が哲学概念とかを使って何かを述べてるってのはもう大体眉唾っつーか気持ち半分ぐらいにして聞いたり読まないとダメだよね。で、最悪なのがそれがまぁ伝染するってことだよね。「論じるとはこういうことなのか!」って思っちゃう頭の良い大学生とかが真似しだしたりして同じ手法でサブカルチャーだのアイドルだのを評論し始めたりするじゃん?でもみんなこういう悪い意味での人文系のアカデミックなやり方を真似てるだけだよね。なんでそれが正しいと思われるのか?っていうとそれが出版されてたり論文として受理されてるからってことだと思うんだけどもっと自分で考えろ!って言いたいわ。


概念の流用とかやたら文献に依拠するとか思考停止ですよ。まじで。そんなの哲学でもなんでもないわ。俺が言ったところで説得力無いかもしれないけどまぁそれこそ権威を借りるなら昔読んだ本でそういう現代の哲学とか論じるってことが文献学とかひたすら文献文献ってことになってるのを嘆いている哲学の教授がいたからね。まぁようはちゃんとした先生の中にも同じように考えている人はいるってことだよね。だからそういう意味で別に俺が言ってることってそんなにマイナーな意見でもないのよね。ただホント、これってもう悪癖だから俺らの世代ぐらいで終わらせるべきなんだよね。論を論で語るっていうタイプの論じ方ね。


あ、んで俺もまぁこのナンパについて書いててリビドーがどうのって書いてるけど本当に書くときは気を付けるからね。ようはどんだけフロイトに忠実か?ではなくて自分に忠実か?ってことね(笑)フロイトの概念をそのまま転用してそのまま還元主義的に語ろうとしていないか?っていうのをリアルタイムスキャンしてる感じだよね。あくまで考えた結果、フロイトのリビドー論とかが割と似てるし説明しやすいからそれを使うってことじゃないといけなくて考えもせずにそれを使って論じたような気分になってるってのがもう完全な脳死への道なんですよね。


まぁすげー昔から書いてるけど論拠はなんですか?ってそりゃ俺がソースだ!ってことなんだよね(笑)「我、おたふくなり」だよね。でも本当にこの文系の文献主義みたいなのって病理なんだよね。しっちゃかめっちゃかでバラバラでも論自体がなんかに対応してそれが文献として示されていればそれはアカデミックであるって判断されるじゃん?だから大澤真幸みたいな人が学位取れたりできるしあんな山師扱いされてる論理学者のコメンタリーなんか書いて博士号取ったりしてるわけじゃん?


あ、んで山師っつーとポストモダンとかって山師だらけでリオタールとか特にヤバいじゃん?でも「リオタールのリビドー経済について」っつー論文を山師の文章を元にちゃんとした体裁で書けばそれは論文として認められるんだよね。なんでリオタールが認められてるのか?ってこと自体が問題なんだけどようは論じる元のもんがめちゃめちゃなもんでも認められてるものなら論は成立するんだよね。これだからクソみたいな論文とか本ってのが大量生産されるんだよね。で、まぁそれをハイデガーの話に戻すとハイデガーはそりゃリオタールなんかとは全然違うレベルの哲学者ではあるけど所詮論は論だし一般的なことを哲学化していてもその妥当性はまた別だよね。妥当性によってハイデガーが選ばれているならいいんだけど退屈論をハイデガーが書いているということで選んでいるんだったらそれはもう本当にただの文献いじりだよね。


ってことでこの辺で切るわ。あ、あとそろそろまた図書館行ってきますねっていうかメリハリついていいなー(笑)読書ノルマが半端じゃないけどこれはこれで楽しいわマジで。