ほどほどに孤独。その14。

アシッド以外の新作作ったんで。音量注意で。

 

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最近また例の今作ってる長いやつの文脈から色々と音を聴き直してるんだけど最近読んだ本でってのがあってっつーか貼るけど

聖者のレッスン: 東京大学映画講義

聖者のレッスン: 東京大学映画講義

 

っつーかあと映画とキリストの著者のやつもあったんで買ったんだけど

映画と黙示録

映画と黙示録

  • 作者:岡田 温司
  • 発売日: 2019/12/21
  • メディア: 単行本
 

 

聖者のレッスンで「表象不可能性」という言葉が出て来て専門外なんであんま知らなかったんだけどディディ・ユベルマンっつー哲学者の表象論だかなんだかで要約するのがアレなんだけど簡単に言えばアウシュヴィッツみたいなホロコーストってのは表象が不可能か表象されるべきではないブラックホールみたいなもんで、例えばそれがシンドラーのリストみたいなホロコーストをネタにした商業映画とかになると最悪だなんつー話があるんだけどまぁそれについては本を読んでもらうなり表象不可能性についてググってもらうとして文脈は違うんだけど俺が宗教モチーフの映画とか音楽作品をディグるときに求めている「聖なるもの」っていうのがまさにこの表象不可能性なんだなって思ったんだよね。

 

ホロコーストの意味合いとは全く違うんだけど言わば最近書いてるブルトマン的な実存的な意味での啓示というのは表象不可能だよね。何しろそれは体験だし霊的体験なんかをすればパスカルみたいに文章の見栄えとか構成を考えずに体験を殴り書きしたりだとかっていうそのぐらいしかある意味表現が見つからないわけで、そんな中で俺のお得意っつーか何でも単純に「モンド」だって言っちゃう論法で巷にある聖なるものを表現したとされるものの陳腐さってのがさ、まぁおさらい的に書くけど例えばエキゾ音楽なんかは未開拓の場所を勝手に先進国のブルジョワがイメージして作ったイメージ音楽で土人の音楽みたいなオリエンタリズムと勝手なイメージのねつ造の音楽で、まぁかといってそれをPC的に批判するってわけじゃなくてモンドの本質はその勝手なイメージなんでそれが面白いよねってことなんだけどっつーか長くなったから丸するわ。

 

 

んでまぁ失敗してるのが池田亮司だなんつーのも前に書いたから繰り返さないけどまぁデジタルモンドミュージックだよね。宇宙の音楽なんてのがないようにデジタルを表現した音楽なんてのも人間の一方的な押し付けがましいステレオタイプなイメージでしかないんだけど、じゃあ聖なる音楽はどうなのか?っていうとこれは歴史が長いんだけどさ、まぁニューエイジとかは別よ。あれは完全にモンドだからね。

 

まぁちゃんとした宗教を題材にした音楽とかなんだけど西洋音楽史のクソ長い本をだいぶ前に買ってっていうかそういうのが知りたくて買って読んでないんだけど(笑)まぁ大雑把に言うとグレゴリオ的なのがあってそっからバロック的な?感じかしらねってところなんだけど大体まぁ大げさでドラマチックなハリウッド的とも言えるようなオルガンと大げさなオーケストラとコーラスなんだけどまぁどんどん世俗化していくとモンド化するんだよね。

 

んでまぁよくゲームのラスボスでそれこそ黙示録っぽい感じの世界が終わるか主人公がラスボスを倒して世界を救うのか?みたいなドラマティックなシーンでモンド的なオルガンとか煩いコーラスが入ったゴシックな感じの宗教っぽいと思われている音楽が使われたりあてがわれたりするのってまぁ聖なるもののモンド化効果よね。

 

実際別にキリストにしても神にしても音楽って関係ないじゃん?まぁだから人間が後付けでイメージで作るのがデフォ化して勝手にそれを宗教的って思うんだけど面白いのが逆説的にその現代的な宗教楽曲みたいに言われるものに全く宗教性を感じないんだけどいつも書くけどグレゴリオとかビザンチンチャントみたいな音楽化する前の祈りの歌だよね。日本で言うとユタさんが神様と交信するときに唱える歌とか南米とかのシャーマンとかの歌とか儀式とかこれもイメージっつっちゃーイメージなんだけどでもさ、手あかがついてなくてプリミティヴじゃん?

 

なんかそっちのほうが装飾ゴテゴテの宗教音楽よりよっぽど宗教性が表象されてるよねっていうのもそれが直に神と交信するための音楽だったり祈りだったりするのかな?っていうようは音楽的な作為性が無いからこそ聖なるものを感じるっていうのがあるんだよね。

 

だからまぁそういうプリミティヴな儀式のフィールドレコーディングとか音源を色々探して聴いたりしてるんだけど大体聖なる感じがあるよね。別にそれがVooDooだろうがなんだろうが関係ないわけ。あとまぁ雅楽とかね。だからこそこにあるのは前にもだいぶ書いたけど作家性みたいな作曲者が「オレオレ!」って前に出てくるようなエゴイスティックなものではなくて神なり音を捧げる対象がメインのものだからこそ間接的に神的なものを感じられるのかな?っていう感じになったんだよね。

 

年明けにまだロックダウンが始まる前だったと思うんだけど鎌倉にお参りに行ったんだけどっていうか年末だったかな。八幡宮でなんかの儀式やってて木で囲った入れ物みたいなのを焚き上げて神道っぽい舞をするっつーのを見たんだけどっつーかまぁ音楽はよく分からんけどまぁインプレッションとしては雅楽で声明?みたいなのが常に唱えられてるっつーかまぁ音楽とセットなんだろうけど面白いのがギリシャ正教とかビザンチンチャントとかと声明がすんげー似てるんだよね。

 

チベット密教とかの声明とかだともっとゴージャスで密教感半端なくなるんだけどそんなに大人数ではない数人の声明ってのがまぁようはチャントですよね。で、ああいう発生方法とか音の雰囲気とかってのがなんで似てるのか?ってのが凄く興味深かったんだよね。

 

雅楽が日本オリジナルのものかは置いておいて雅楽のオリジンみたいな時代ってキリスト教諸国との交流なんて無かったはずなのにすんげー似てるってのが面白いっつーのもそこがオットーが言うような宗教的アプリオリなのかな?っつーかオットーの宗教的アプリオリの概念が何だったかあんま覚えてないから読み直すとして(笑)人間には何か聖なるものを聖なるものだと思ったり感じられるアプリオリなものが備わっているんじゃないか?って思わずにはいられないんだよね。

 

まぁそれは元を言えば原始時代とかの祖先が自然現象とかに神的なものを感じて例えば雷は神が鳴っているからカミナリなんだって思ったりまぁよく分からんものをそういう聖なる次元とか神的な次元で扱ってたと思うんだけど科学が発展してそれは自然現象だって分かってもなぜか神々しい自然現象ってあるんだよね。

 

例えば自分の体験だと場所忘れたけど家族旅行でどっか行ったときにボートで海鳴りの洞窟みたいなまぁゲームのダンジョンみたいな名前だけど(笑)正式名称忘れたけどようはそこに波が入って波打ちの音が洞窟内でリバーヴがかかって雷みたいな音に聞こえるから海鳴りだか雷の洞窟だか雷穴だったか忘れたけどそんな名前がついてるんだけど現象の道理は頭でわかってるのになんか怖いっていうね(笑)

 

まぁあれを怖くないと感じるほうがおかしいぐらいの迫力なんだけど自然現象がもたらす圧倒的な迫力というのに人間は神性を感じてきたっていう体験自体がDNAに刻まれてるとしか思えない感じがあるんだよね。だからなんか文化は違っても祭られてる系のものだったら神聖なものを感じるからそこではあんま騒がないとかさ、「ローカルな神様が祭られてるんだな」ってなんとなく思うわけじゃん?自分の宗派とか宗教の有無関係なしにね。

 

まぁ日本でも神仏を破壊する輩がたまにいるけど「さすがに生粋の日本人だったら神仏には手を出すわけない」っつって勝手に犯人は外国人に違いないとされるのも言わば日本人的アプリオリ感だよね。もちろんこの場合、それが差別に繋がってるんで良くはないんだけどただ特に同意とか合意の会議をしたわけじゃないんだけど「日本人じゃないよね犯人は」という感覚が共有されるというのは吉本隆明が共同幻想とかって呼んでたようなものなのかもしれないけどある種の宗教性だよね。

 

霊なんているわけないし何かを祭るとか科学の時代に何やってんだ!って思ってる人でも「じゃあ将門の首塚に悪戯してきてください」っつったらまぁそれはモラル的に問題があるにしても(笑)なんらかの畏敬があって恐れ多くてそんなことできるわけない!って思うわけじゃん?もちろん逸話とか都市伝説に事欠かない将門の首塚だからってのもあるんだけど気が引けるのはある意味でのアプリオリな感じだよね。

 

それがどこまで植え付けられたものなのか生得的なものなのかってのは分からないんだけど厳密な線引きとか検証を抜きにすれば聖なるものとか神聖なものへのある種の感受性や感覚ってのはアプリオリに存在する面は多々あるってことだよね。もっと言えば何かを感じやすい人はそれが強いのかもしれないけどね。

 

近年建てられたっぽいエンタメ的な神社に神性を感じなくて古い神社に神性を感じるのもヴァイブスっつー雰囲気の問題ってのもあるだろうけど(笑)恐らくそこが人工的なものが介在しているか否か?っていうところで、例えば実は古い神社にしても観光名所で儲かるっつーんで雰囲気をモダン化させた結果、全然聖なるヴァイブスが無くなっちゃった場所とかってのはあると思うんだけどそれってのがまぁようは人工的なものの介在なんだよね。

 

これがまぁさっき書いた人工的なものが介在し過ぎる宗教音楽は世俗臭くなるのと同じで逆にプリミティヴな祈りそのものみたいなのは文化とか場所関係なく神聖さを感じるってのが聖なるものへのアプリオリな感じなのかな?って思うんだよね、

 

実際にがっつりコンポーズされた宗教音楽とかって全く宗教性とか神性を感じないからね。逆に恐山のフィールドレコーディングとかあったら色んな意味で神性を感じずにはいられないよねっつってもそれは恐山にて録音ってのが明記されてるから感じるんであって全く知らされないまま聞かされたらどうなのか?ってところではあるんだけど、そこが表象不可能性とかにも通じると思うんだよね。

 

この場合、恐山自体に神性さがあるかどうかは別として恐山ヴァイブスが録音によってその場所の磁場感とかアウラを記録できるか?っていうところになるじゃん?それはその場にいないと分からないっていうんであればそれは場所とセットのインタラクティヴなものとしての音っていうことで音と場の切り離しはできないってことになるんだけど例えばじゃあ切り離しが可能だった場合、どう可能なのか?っていうところだよね。

 

もしくは抽象化されると神的だったりもしくは禅的とも言われるようなものって究極のミニマリズムっていうかさ、あくまで西洋的なミニマリズムだけどほとんど音がしないような現代曲を禅的って言ったりするのもそういうことだと思うんだけどこれもまぁ安直な無音=無とか無を宗教性として解釈するっていう観念的なものだよね。実際は聖なるものとは程遠いんだけどでも例えばさっき書いた八幡宮での神事の時のアウラっつったら凄まじいわけよ。とりわけ雅楽の間だよね。長い間の時に舞を舞っている人のかすかな足音とか見ている人たちの鼻をすする音だったりだとかあとまぁ木が燃える音だよね。

 

まぁ究極の一回性だよね。全てにおいて同じ音というのがまさしくありえないことというのがその場で起きているわけだ。それがどんなに人間が必死に見繕った不細工な聖なるものの表現よりも聖なるものを感じるというところがつまりは宗教的アプリオリ性みたいなのにダイレクトに訴えかけてくるものだからっていうことになると思うんだよね。

 

まぁ別に人工物で聖なるものの表現に失敗しているものばかりではないと思うけど探してもなかなか見つからないわけで9割ぐらいは実際のところモンドかあとは様式だよね。宗教歌なり宗教音楽っつー伝統を踏襲したものでそのフォーマットを使ったものなんであって本来的な神性とかとは全く関係ないっていうね。逆にあんなもんに神性を感じるなんて相当鈍いかセンス悪いかどっちかでまぁそういうやつの宗教性はたかが知れてるってことになるんだけどまぁこれもポイントだよね。ようは宗教の世俗化っていうのはそういうことでめっちゃ分かりやすい宗教曲とかにあるような見せかけだけの神々しさとか煩いだけの崇高さだよね。カント的なSublimeとは程遠い張りぼての崇高さだよね。

 

まぁこれは俺の主観というか「こうあるべき」っつー考え方が先行してるけど前にノイズのことでも書いたように人間は音を表出させる媒介であるべきで主体であるべきではないんだよね。とりわけノイズにそれが顕著なのは人がいかに最高のノイズを出すか?っていう媒介に徹するからなんであって下手に作家性が出たりするものほどつまらないのが多いってのもそういうところなんだよね。だから主体性が邪魔なわけ。

 

それって宗教でもそうじゃん?まさに主は神なんであって人ではないよね。人が偉そうなことを言ってキリストになったり神になったりしちゃダメなわけだ。そういうわけで表象不可能性ってのはホロコースト的な意味ではなくて宗教的な意味だと神の偶像を作ってはいけないとか、つまりは神が抽象から具体に落ちてくることがないっていうことなんだよね。それが唯一あったのがキリストの受肉なわけだよね。

 

だから宗教体験というのは極めて個人的なものでつまりはそれがブルトマン的なテーゼに繋がるんだけどつまりは実存的なんだよね。カトリックみたいに昔から権力があって国がそうだからとか家とか学校がそうだったからっていう理由の宗教は形骸化した世俗化された宗教なんであって真の宗教っつーのは個人的な神と自分との関係性以外ありえないわけだよね。

 

この辺だと逆にイスラム教のほうがその思想は顕著だよね。イスラム神学自体には全くシンパシーは感じないんだけど神的概念に関してはイスラム教は正直すげーなって思うところがあるね。だからまぁ騒ぐのは一部の過激派だけだと分かっていても神性が穢されると信者が起こるのも頷けるのはそれは自分が属する宗派とか教会がディスられたのではなくて個人的に深い関わり合いがある神を冒涜なり穢されたというのは自分の親とか奥さんを冒涜されたとかもしくはそれ以上の屈辱を感じるんだよね。

 

関係性がプライベートでダイレクトだからこそ侮辱が即、個人的な侮辱を超えたものになるんだよね。安っぽい言い方をすれば俺のことはいくらでもディスってかまわないが親のことをディスるのはやめろ!みたいなことだよね。

 

まぁもうこれは実存性の現れの何でもないよね。神との関係性は実存的なもの以外ありえないっつーね、逆にそれ以外のものがあるとすれば慣習とかそういう文化とか家がそうだったとかっていうアポステリオリなものになるんだよね。だからアプリオリなものには敵いっこないっていうね、まぁ色んな宗教性があって然るべきだけど実存性を抜いた神との関係なんてありえるんだろうか?っていう、ありえるとすればエックハルト的な合一とかそういう高いレベルのもの以外ありえないだろうって思うんだよね。

 

まぁそんな意味で自分の中でキルケゴールをそういう意識で再読してみようって思っててつまりはこれが抹香臭くない宗教臭くない真のChristianityなんだろうなって勝手に思ったりしてるんですけどね。真のChristianityってのは宗教性を超えるわけなんだよね。それが実存的だからこそ普遍性を帯びるってことになるわけ。逆説的にカトリックは名前に反して人工的で権力的なものだから普遍性はありえないってことになるよね。個人と神の関係以外の普遍性はありえないってことだね。

 

まぁその直接性で言うと霊性の高いシャーマンやユタなんかも個人と神じゃん?だからなんかそれはオカルト抜きの神秘主義にも繋がるんだよね。だからまぁエックハルトがすんげーヤバいってことになるわけだよね。恐らく真の宗教性をまとったものってのは世俗の正統派とされるものからはずーっと異端扱いを受けると思うんだよね。キルケゴール然りシモーヌ・ヴェイユ然り。

 

でもそれは逆に言えばオカルトめいた護教抜きの、理の究極である哲学とほぼ同一であるってことでもあるんだよね。そこに境界線は無いんだよね。知を渇望すれば自ずとそれは神を渇望することになるんだけどまぁそこは個人差があって神的なものに目覚めたり接する機会があったかどうか?っていう個人的な実存的な話になるんだよね。

 

まぁそれは思想とか芸術作品と一緒だよね。大学を一旦休学してモヤモヤしていた時にこの作品に出合って人生が変わったんです!とかディレクションが決まったんです!みたいな契機ってあるじゃん?でもそれは偶然的なものだから全ての人にそれがあるかどうか?ってのはまた別なんだよね。

 

つまりはその契機の話だよね。もちろんそれが正しいかどうかってのはまた別なんだけどね。カルトめいたものだったり明らかに間違った道に行くきっかけだったりもするわけなんで一概に契機があったからやった!ではないってことなんだけどね。

 

ってことでまぁ今日はそんな感じで。

 

んじゃまた。