ハァハァしない人間=徳のある人間。

mimisemi2009-03-11

断片的にシュトラウスを読んでいて少なくともまぁ確証に至ったことがあって、それってのはまぁシュトラウスってのは理想主義的現実主義者ってことね。理想主義のレベルではマルキストも恐れをなすような歯が浮くぐらいのユートピア建設を望んでいるんだけど、現実レベルだとそのためには手段を選ばないというマキャベリアンなところがあるわけなんだけど、シュトラウスマキャベリズムに説明はいらないねっつーのはまぁ半ば悪魔化されたシュトラウス像ってのを見ればその大半が彼や彼のフォロワー達のマキャベリズムから来ているわけなんだけど、マルクスと同じく、そういった悪く見えるような一面だけを見て評価するのはおかしいわけね。左翼のおかげで世界的に悪名高くなってしまったシュトラウスイデオロギーなんだけど、忘れてはいけないっつーか、無視しちゃいけないのがその表面的に見えるマキャベリズムのコアにあるユートピア思想ね。


ユートピア思想っつったら大半の左翼は喜ぶでしょう。いや、実際そうなんだよ。シュトラウスユートピア思想の部分だけ読めば恐らく世界の大半の左翼がシュトラウスを信望すると思うんだよねっつーのはね、基本的にシュトラウスが考えているのは、プラトン思想に起源がある「one man one job」ところでさ、あ、ここからは自信が無いからあくまで俺のシュトラウスの解釈と思って読んでもらいたいんだけど、つまりはシチズンシップというのは「Art of Justice」というような、共通善を保全するような古代ギリシャ的なタームでのartを兼ね備えた人々のことなんであって、例えが悪いけど、スターシップトゥルーパーズの市民と凡人の違いみたいなのに近いものがあるんだけど、シュトラウスというか古代ギリシャ的なパラダイムだと、そのシチズンシップというのは戦争に行って手に入れるシチズンシップなんではなくて、徳がある人間達が持っているものがシチズンシップなのね。


そんな市民達が共通善を重要なものと見なしながら彼らの活動(art)を実践するという活動の場がポリス、つまりは社会になるわけね。そこには醜い争いとか、欲望と欲望のぶつかり合いだとか貧困だとか不平等ってのが全くないっていう社会なんだけど、ここまで見るとまぁアナーキズム的なユートピア社会だよね。シュトラウスもそういったユートピア社会では政府は必要ないとまで言っているぐらいだから。でもそれは人間ってのをイノセントなものとして見なす事でしか成立しない社会のパラダイムなんであって、実際の人間ってのは個人差はあれ醜いもので、例えば透明になれる指輪とかがあれば透明になって盗みを働いたり、好きな姉ちゃんの家に忍び込んで下着とか靴の臭いを嗅ぎながらハァハァしたりとかするやつもいるわけじゃない?アナーキズム的なユートピアは指輪を手に入れてもハァハァしない人間達によってのみ到達可能なんだけど、まぁ実際はハァハァしたり盗みを働いたりするやつがいるっつーかむしろそっちのほうが多いはずだよね。俺だって透明になれたらやると思うもん。ムラムラくるブロンドの家に忍び込んでオナニーしたりとかね、ふつーにすると思うね。


こういう輩が世の中には多いから結局、ヴァーチューのある賢人達の統治が必要になるというわけだよね。ちなみにその理想的な社会ってのはね、最低限必要なもの以外を欲しないストイックな人間達によって構築されるというよりかは現れてくるらしいんだけど、これもまぁ無理だよね。ムラムラ来てるやつが多いし金が欲しくてたまらないやつとかが世の中には多いわけでさ、ユートピア社会ってのを人間に託してても成熟不可能なんだよね。そこでまぁ強引に民主主義に繋げると、民主主義もつまりはそういうことね。政治を担うのがそういったムラムラ来ている人間も含めた連中なのであれば、そんな連中に政治なんて務まるわけがない。


括弧付きの「正義」だの古代ギリシャでも儒教でも共通の「徳」だの「善」だのを最大の価値と見なしながらそれに向かって生活できる人ってパンピーや政治家も含めてどのくらいいると思う?ちょー少数だよね。いたとしても大半は世捨て人だったりホームレスだったりするかもしれないね。だからこそその少数者が社会を統治しなきゃいけないって話になるわけだね。だからもしかしたら本当の政治家というよりかはプラトンアリストテレス的なステイツマンみたいなポテンシャルを秘めた人間ってシェルターとかにもいるかもしれないんだよね。それこそ「善」のためだったら、どんだけ可愛い姉ちゃんが「はぁ〜い」って言いながら誘ってきても断れるみたいなさ、まぁなんつーか個別の11人っぽい童貞さっつーか、政治馬鹿さ加減が必要なんだよね。


ただ現実の政治の世界でそんな人間が政治を担っているわけではないし、ましてやそういったストイックさは持ち合わせながらも俺みたいに実務的なことをやらせると一切ダメみたいな人間もいるわけで、シュトラウスの定義するエリートっつーか賢人ってなっかなかいないレアな存在なんだよね。それはモンスター爺さんに預けているモンスター全部がはぐれメタルってぐらい不可能な話かもしれない。もしくは可能であってもどんぐらい時間がかかるんだ?っていう。


で、実際のところはまぁそういったシュトラウスの意志を継いだ人間達がネオコンと呼ばれる連中になっていると言われているけど、実際のところ本当にその意志を継いでいるかは相当怪しいよね。マキャベリアンなので民主主義やアメリカ的自由を広めるためなら虐殺も厭わないみたいなところはあるわけで、そういった結果がまぁイラク戦争だったりするかもしれないんだけど、例えばウォルフォウィッツとかってさ、政治学を勉強しようと思ったきっかけっつーのが「自分が核戦争を防げると思っていたから」なんだよね。大量虐殺の張本人かもしれないけど、そこは左翼が批判するような、勘違いした正義というのが空回りした結果がまぁイラク戦争だったり、その後のややこしい事態なのかもしれないけど、誤解を恐れずに言えば理念のレベルでは俺はウォルフォウィッツが理解できるし共感できるのね。結果だけ見れば惨敗だしただの大量虐殺だったけど、彼の理念で言えば人一倍正義感が強くて政治的信念がある人間なんだよね。恐らくネオコンっつーかシュトラウス派の大半がそういう人間なんだよね。だからあれだけド派手にメディアを占領したり他国に侵略したりやりたい放題やるわけなんだけど、でもその先に彼らの頭にあるユートピア社会建設ってのがあるんだよね。だからウォルフォウィッツのような強硬どころか凶行とも言えるタカ派的な外交もね、彼らにしたら恐らくユートピア建設のただのプロセスなんだよね。だからそれは前に書いたような、あくまでユートピア建設に利用できるヘゲモニーとしてのアメリカなんであって、彼らはアメリカを最高に愛しているというよりかは、アメリカ的な民主社会のフレームワークを世界に広めるためのアーキタイプとしてのアメリカなんだよね。


なんつーかネオコンって当たり前のことを言うようだけどネオコン思想を理解しないとまともな批判ってできないね。だから大半の左翼が使う形骸化された「ネオコン」という言葉はもはやもう意味を成してないんだよね。乱用されすぎたし、タカ派的な右翼を表すただの空虚なシニフィアンになっちゃった感は否めないよね。メディアが使う大半の「ネオコン」という言葉も誤用だし、「ネオコンが考える政策というのは・・・・」とか言って書かれてるものの大半は間違ってるって言っても過言じゃないってネオコンの誰かも言ってたぐらいだし、まぁ実際そうなんだよね。それはネオコンを知れば知るほど俺が断片的に知っていた漠然としたネオコンへのイメージとか中身とかとのズレが凄まじくなるんだよね。


もちろんまぁバラしちゃうようだけど、シュトラウスは言うまでもなく反民主主義者だし、ネオコン全般も帝国主義的民主主義者なわけよね。でもミヘルスが言っていたような寡頭制の鉄則を出すまでもなく元が革命家達の集団であれ日本みたいなグダグダの世襲政治であれ、基本的に政府ってのは寡頭政治に傾くんだよね。それは党派制は全く関係が無いわけで。だからこそそんなことを自明っつーか自然の流れとして定義して、「来るべき民主主義」なんて呑気な事を言っていないで、現実的な力で政治なり物事を変えて行くしか無いんだよね。デリダ流の来るべき民主主義論を支持するってことはつまりは日和見主義を支持するってことだよね。なんか今の俺の中にある左翼のイメージって民主主義の素晴らしさをアジることでメシを食っている知識人達の集団ってのがあるんだよね。民主主義は良いものだという盲目的な概念があるので、とりあえず民主主義を支持していればポリティカルコレクトネスはオッケーだし、ある程度の支持は得られるみたいなね、これこそまさしく日和見主義だよね。だから左翼は甘いんだろうな。やっぱりマジで政治を考えたら行き着く先はコンパチブルな極左と極右だよね。ちなみにネオコンは俺の勝手な定義では具体的な政策の面ではリベラルなんで、まぁリベラル強硬派と言えるかもしれないね。政治的な意味で言う右ってのはバーキアンだとか伝統主義者とかなんだよね。中絶反対!とかポルノ反対!って十字架を背負いながらファナティックに叫ぶ人達がアメリカの右翼だね。この「反対!」って言葉を「賛成!」にすればそのまんままぁ左翼になるわけだね。そういったことをマルクスなりなんなりを背負いながら言うのが左翼なんであって、本質的には右翼とあんま変わらないわけね。


俺はそんなものはナンセンスだと思うからまぁシュトラウスネオコン思想全般に熱心になっているわけね。本当に社会を変えようと思ったらマキャベリアンになるしかない。少数派のまた少数みたいになっちゃうけど、んでもそれだけ真面目に政治について考えるってことは面倒なことなんだよね。まぁ俺が社会を変えよう!とかって思っているわけじゃなくて、自分の政治思想全般への興味がまぁ俺の実存レベルのことと共鳴しながらまぁ今はシュトラウスネオコンになっているわけね。面白いもんでネオコンをちょっとでも理解できるようになるとアメリカ外交の歴史とかさ、アメリカの歴史全般の見方ってのが一気に変わるんだよね。今まではネオコン=悪みたいな単純な図式で理解もせず分かったようなふりをしていたわけだけど、中身を理解したら全然見方が変わってくる。だからといって俺は既存のネオコンを盲目的に支持はしないけどね。もっとシュトラウスを自分流でもいいから理解して、誰が本当のシュトラウス派なのか?っつーのを見極めるぐらいの眼力をつけないとネオコンは語れないと思うわけでね、まぁ結構長い課題になりそうな予感がするんだけどもっつーか特にシュトラウスは読みづらくて難しいからね。サラッと読めるような感じじゃないし、源流としてプラトンアリストテレスも理解しないといけないわけで、なんつーか一大事なんだよね。一大プロジェクトっつーかなんつーか。あとはまぁホッブズとか自然権についての古代からの議論全般についてとかね、まぁシュトラウスを理解するには膨大な予備知識を必要とするわけで、だからこそまぁあんま世の中では認知されてないのかもしれないね。それだけ読んでサラッと理解できるような簡単なもんじゃ無いからね。だからまぁシュトラウスってフィロソファーズフィロソファーなんだと思うよね。


社会学者のミルグラムが定義していたようなconformityってのが政治思想や政治運動全般にあるんだよね。左翼なら左翼でみんなでデモをしたり思想を仲間と語り合ったりすることによるカタルシスや連帯感や満足感があるんだよね。あとは事実とは違うかもしれないユートピアだとか人間は素晴らしいんだ!みたいな実存レベルで発生しているような想定と政治的コミットメントをごっちゃにしているとかね、そういうのを信じる同志と共に活動をするという事自体が彼らのカタルシスの獲得や実存の欠如への穴埋めの機能を満たしていると同時に、ミルグラム的なconformityを感じられるようなまぁ寝心地が良いベッドにいるみたいな感覚を提供するのが左翼にとっての左翼活動であり左翼思想なんだよね。右翼はちょっと違うかもしれないけど、基本的にまぁ同じだろうけど、まぁ明らかに比較的に右翼は馬鹿が多いけどね。アメリカも日本もっつーか世界を見ても「俺らの国だから」とか分けの分からない理由でナショナリズムとかを唱えるやつって大抵はアホが多い。まぁ鈴木邦夫さんが言っていたように右翼は馬鹿でもなれるんだよね。でも左翼はマルクス主義とかを理解しなきゃいけないから馬鹿は右翼になれない。でもまぁ政治レベルでは右翼も左翼も一緒なんだよね。現実の政治にはほとんど無力という点においてね。


なんつーかさ、本当に政治的な影響力を発揮できるような人間ってのは、例えばシュトラウスを根っこから理解できるような人間から出てくると思うのね。だからそれは既存のアカデミアなんかからは出てきにくいかもしれないし、ましてや大衆の中からも出てきにくいかもしれないんだけど、シュトラウス的なマキャベリズムを理解して本当に実行できる哲学者と政治家の才能両方を兼ね備えたようなやつが世の中を変えていくようなvisionaryになると思うのね。それは夢想家という意味でのvisionaryではなく明確な政治的ビジョンを持ったカリスマティクな人間という意味でのvisionaryね。まぁそういう意味でまぁ今後に期待するしかないのかなって気はするね。ましてや911以降はネオコンってのは悪魔化されちゃったから、そんな中から本当にその意志なり政治的ビジョンを汲み取れる人間ってそう多くはないよね。でもその少数が右翼とか左翼みたいなパラダイムを越えたレベルで政治を変えていくしかないんだよね。シュトラウス派って伝達率が低いのもあって直結の愛弟子達みたいな連中しかいないけど、海外に伝達してそれが派閥を生んだりすることは無いのかな?相当クレイジーな想定をすれば、他の大国がシュトラウス派によって掌握されたら、それってある意味で国際的なコンセンサスがシュトラウス派の名の下においてくだされることになるよね。そこにあるのは世界革命でリベラルな世界ってことになるわけで、何気にネグリ・ハートみたいな左翼的なビジョンと近いものがあるんだよね。インターナショナリストという点ではネオコンマルチチュードを信望するような左翼には共通点があるね。ただ違いはそれをゲバルトや権力によって行うのか、人民の力によって行うのかって違いなんだけど、仮にマルチチュード派の人民パワーってのに武力も含まれればネオコンマルチチュード派の思想ってたいした違いは無いよね。ネガティブに言ってしまえば、彼らは両方とも横柄で自分たちの価値観を信じきっているってことと、あとナイーヴなまでの正義感だね。


今回は割と極左と極右の共通点っつーかコンパティビリティみたいなのが割と上手く書けたような気がするな。いや、別にネオコントロツキストの集合体だなんて言うつもりはないよ。でもまぁちょっとした面白い共通点は無くも無いってことね。三島由紀夫全共闘の学生に向かって「君らが天皇さえ信望すれば共闘できるのになぁ」って言っていたのと同じような図式がネオコンマルチチュード派にあるんだよね。ネオコンは民主主義を信じてなくて、マルチチュード派は徹底的な民主主義者達ってことなんだけど、違いと言えば民主主義を信じるか信じないかってところで、三島と全共闘の図式で言えばその民主主義にあたるものが天皇になるわけだね。


ってことで今日はこの辺でっつーかタイトルを「対極の先に存在するもの」とかにしようと思ったんだけど、ウォール伝に似合わぬ真面目なタイトルになりそうなんでやめたね。それっぽいタイトルにしてちょっとアカデミックなこと書くと最悪だからねっつーか情報を探している人が迷惑するよね。やはり便所の落書きはその程度のクオリティを見た目においては保つべきだね。中身に何かがあるかなんて読んだ側にしか分からないんだから。つまりはやっぱりあれだよね、エクリチュールって書かれたものと読むものの間に介在する関係性なんだよね。なので文章そのものが何かを述べているわけではなくて、そこにあるのは読み手の解釈しかないんだよね。そんな意味でこないだ書いた人生の解釈装置としての人間っつーのとまぁ似たようなもんだよね。


で、追加なんだけど、政治のジレンマってここにあるよね。例えばシュトラウスの読み込みなんかを行えるのは俺みたいな好事家的な暇人しかいないわけでさ、逆説的に言えば政治を考えられるのってそれこそ前に書いたような、古代ギリシャ的な一日ダベってるような哲学者達とか知識人だけなんだよね。恐らく。社会というコンテキストの中で政治についてコミットしすぎると、どうしても自分の社会的立場と政治的立場との関係性が生まれるよねっつーのは自分が労働者階級で組合とかにコミットしてたら賃上げ闘争とかに参加するだろうし派遣村とかにも参加すると思うんだけど、権力について考える覇権村に参加できるのって哲学者や知識人といった暇人だけかもしれないよね。それでメシを食っているか、ダベってる時間がある人達だけってことなんだけど、逆に哲学者のほうがもっとピュアなのは、まぁ知識人をソフィストとして扱うつもりはないんだけど、社会的なレプレゼンティブとしての知識人みたいになっちゃった人ってやっぱそれこそさっきの組合にコミットしてるような人みたいな党派制みたいなのに縛られるようになるよね。左翼系の論壇で活躍しているならそこから外れるようなことを言えば干されるし下手な事は言えないみたいになるしさ、ましてや知識人全般が「民主主義なんてクソだ」なんて言おうものなら活躍できなくなるもんね。だからこそ全くしがらみのない哲学者にしか政治ってのは考えられないかもしれないね。あるかどうかは別にして真実や真理しかり。真実というのは必ずしもコモンセンスの上に成り立っているとは限らないから、それを見つけて主張するのって大変なことだもんね。下手すりゃ恨まれたり批判されたり殺されたりするかもしれないわけでさ、まぁそういう意味で俺は一生知愛者としてのフィロソファーでいたいね。絶対世間に迎合したくない。あと政治においてはいかなる党派制も持ちたくないね。だからまぁ俺って運動全般に全く興味ないんだよね。何しろそれにコミットしたらそれがしがらみになるわけでさ。なんつーか哲学者の条件って世間から哲学者って言われないことかもしれないね。


まぁいいや。んじゃあまたね。


PS


あれね、シュトラウス思想の危険性はそれ自体にあるのではなく、デリケートなもので扱いを間違えると大惨事になりかねないというところにあるわけね。だからこそこういう危険物に見えるような思想を扱えるのはごく少数ってことで、それがシュトラウスの言うところの賢人だったりエリートだったりするわけだけど、俺が勝手に思う究極的なシュトラウシアンは攻殻機動隊のSolod State Soceityにおける久世というか久世の無意識が顕在化した存在ね。右翼・左翼も経由した果てのあの社会の歯車としての実存という昇華した政治的ヴァーチューはまさしくシュトラウシアンそのものだね。まぁ一見悪に見えるんだけど、実際はもしかしたら社会にとってはそれは良い事なのかもしれない?っていう微妙なところねって意味で久世はネオコン思想を語る上で以外と欠かせない存在かもしれないね。


Fabriclive.37

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