その頃、北イングランドの夜クラブで六夜連続の仕事があった、という声が混ざってくる。昼はスタジオ、夜はクラブ。退屈すぎてスタジオを削った、と言う。削った、という動詞が、指先を削るのに似ている。夜クラブで二人と出会った。彼らは、自分がまったく馴染みのない音楽をやっていた。ケージ、シュトックハウゼン、メシアン。さらにコルトレーンとビル・エヴァンスの当時の録音も回っていた。混合物。混合物の中では、チャーリー・クリスチャンのリックを弾くのは場違いだった。場違いという感覚だけが、現場で一番信用できる。信用できるから、頭で考える前に手が別の方向へ伸びる。
だから別の弾き方を探した。探した、というと意識的に聞こえるが、意識的じゃない。必要だった。実務だった。実務が一番暴力的に人を変える。現場でどうにかするしかない状況が、語彙を作る。語彙、と言うと「自分のもの」を作ったみたいに聞こえるが、実際は同質化のための逃げ道だった。他の二人と均質になるために、今までの自分を捨てる。捨てたのに、自分が残る。これが一番嫌な残り方だ。
だから、自由即興に落ちていく。落ちていく、というより、唯一の解だ。三人が違いすぎるので、書くと壊れる。書くと機能しない。だから書かない。顔のない作家とデレク・ベイリーの奇妙な一致。書かないのに、毎週土曜の昼にクラブをやる。三年近く続く。そこで変化が空気に晒される。二、三、四回、午後に集まれる場所を探して集まる。場所がないなら音が場所になる。音が場所になると、人間が場所から追い出される。追い出されると、ペンネームが必要になる。必要になると、またデレク・ベイリーが出てくる。橋渡し役。自分から仕事へ移行させる橋。
ここで突然、妻が死んだ話が割り込む。息子のことを考えなくなった、と彼は言う。五年以上前のこと。最近、妻の写真を壁から外した。外した瞬間に残ったのは記憶ではなく身体感覚だ。考えているのでも思い出しているのでもない。ただ、過去の痕跡が肉に残っているだけ。コントロールできない。コントロールできないものが増えると、人は名を変える。名を変えると、生活の輪郭が少し滑らかになる。滑らかになった輪郭の上を、雨が流れる。
彼は友人に「信託財産がある」と言った。実は妻は金を持っていなかった。友達もいない。友達もいない、というのは嘘じゃないが、真実でもない。代理人の秘書が返事を書くのだから、友達の代替品はいる。代替品が増えるほど、本人は薄くなる。薄くなるほど、言葉が勝手に走る。勝手に走った言葉が、ある日、ケージの断片や、メシアンの和音や、エヴァンスの影に触れてしまう。触れてしまうと、もうチャーリー・クリスチャンには戻れない。戻れないのに、戻りたいとすら思っていない。思っていないということが、一番取り返しのつかない形で「決定」になる。
「黄金期があった」みたいに人は言う。自由即興の黄金期。流行。ファッション。だが、もし流行だったなら、自分はそれを見逃した、と声は言う。見逃した、という言葉が、郵便局の番号箱のように空虚だ。空虚なのに、そこだけが連絡口だ。雨が止むのを待ちながら、長い散歩に出るか短い散歩に出るか考える。考えるふりをしている。実際は、散歩がすでに始まっている。始まっている散歩の中で、マックス・ワークがまた殴られている。殴られる音と、夜クラブのドラムの音が、同じ拍に聞こえる。拍が揃うと、物語が勝手に正当化される。正当化されると、罪悪感が薄れる。薄れると、また書ける。書けると、また捨てられる。捨てられると、また名が生まれる。
デレク・ベイリーは発明品だ。発明品なのに独立して歩く。毛抜き田独歩。歩くとニューヨークになる。ニューヨークになると散歩になる。散歩になると「どこにもいない場所」になる。どこにもいない場所で、ケージが鳴る。鳴ったケージの中で、私立探偵が解決する。解決のふりをしたまま、雨が続く。雨の続く音だけが、ギターの新しい弾き方を要求する。要求は意識の前に来る。意識は後から説明を付ける。説明はいつも嘘になる。嘘があるから、音が生き延びる。
ここで私は、勝手に現在へ戻ります。帰国後のつまらない生活。これは贅沢な愚痴に見えるかもしれない。でも、つまらなさというのは、制度が固定しすぎて“sruti”が死んだ状態です。ズレが許されない。許されないというより、ズレが起きても意味を持たない。誰も聴いていないから。誰も呼ばないから。誰も私の名前を呼ばないから、私は振り向きもしない。振り向いたところで、そこに「自己」が立ち上がらない。自己は、認識の交換の中でしか生まれない。交換が断たれたとき、人は一般名詞にも固有名詞にも接続できなくなる。逃走者なのに、誰も気づいていないから逃走にならない、という透明の地獄が始まる。
だから私は、歴史を“自分の中の制度”として再構成する。アメリカのフリー勢がヨーロッパへ行ったのは、観光ではない。環境を変えることで、可変性が制度として機能する場所へ移動した。いま私が必要なのも同じです。地理の移動かもしれないし、地理ではなく時間割の移動かもしれない。共同体の移動かもしれないし、共同体を作る側に回ることかもしれない。要は、compásを共有できる他者が必要だ。共有された拍がない即興は、ただの独り言になってしまう。独り言でもいい、という美学もある。しかし独り言を“音楽”として持続させるには、独り言のための制度が要る。FMPのような器が必要になる。
この瞬間、私は“ヨーロッパ”を地理としてではなく、方法として呼ぶ。ヨーロッパとは、亡命先ではなく、制度の別名。ラガのように未成形で、演奏の瞬間に完成する制度。compásのように共有可能で、しかし比率はいつでも変えられる制度。layaのように、数学ではなく推進力としての脈拍を重視する制度。そういう制度のなかでしか、人は本当に退屈を殺せない。
詩篇(プソーティエ)の前に立つと、足首まで白い儀礼の布に包まれる。堂々とする。堂々とすることでしか、与えられない尊厳を自分に与えられないからだ。オルガンの低い唸りが、声の内側の微振動に刺繍のように被さる。上昇の運動は調律され、落下は脆い。最後の解決は、喉を火の線で焼く。声は、燃える。燃える声は、規則の四壁に響く。響いても、規則は変わらない。変わらないが、響いた事実だけが残る。即興とは、その残り方の話だ。成果ではなく、残り方。記録に反する精神。ドキュメントに敵対する精神。
俺は、帰国後、この“儀礼の白さ”を嫌った。白いほど、汚れが目立つ。汚れは俺の中にある。未開封のミスプレスにムカつく心。太客だから融通してほしい心。信用が揺らいだ心。そういう汚れが、白い場所では目立つ。だから俺は、白さを避けて、暗い場所へ行く。暗い場所では、汚れは見えない。見えないと、俺は落ち着く。だが落ち着いたままでは、音が出ない。音は、露出して、燃えて、裂けて、初めて“今”になる。
蛍の冷光の話を思い出す。ほとんど熱を失わない。効率が良すぎる。だから人はそれを“美徳”にする。熱を出さないことを、品行として褒める。だが音楽は、熱を出す。熱を出すから危険だ。危険な才能、という言葉がここで生きる。危険なのは、逸脱するからではなく、熱が周囲の秩序を焦がすからだ。秩序は焦げるのが嫌いだ。焦げるのが嫌いだから、秩序は規則を増やす。規則は四壁を厚くする。四壁が厚くなると、俺は海を聴きたくなる。屋根の上の海は眩しい。鍬より眩しい。眩しさは、規則の外にある。