iyiさんへの私信。

結局、確率論に限らず数学というのは諸現象や諸概念の文節化の体系なのか?とかって思うんですが、それは人間が考えるような数学ではなくてもっと本来の数学というのを人間が発見した結果、あたかもそれが色々なものの文節化に見えるということなんだと思うんですね。でも数学というのは全体像が分かりませんし、人間が発見したり理解することでしか知覚されませんよね。でも恐らく数学の全体像なんて分かるわけが無いので結局あるのは数学の限界なんではなくて人間の限界ということになるんですよね。そういう数学に対して無力な人間が確率というものを文節化された形で理解するのに数学という言語が必要になるということだと思いますね。でもそれは局所的だったりするので実際の確率とは変な話、関係がない場合もあったりすると思いますね。


便宜的に確率論として落ち着いているものが人間が考えている確率論でそれが本当の確率という概念の精度が高い文節化なのかは疑問です。でもそれを言い出すと数学全部そうなんじゃないか?なんて話になるんですが、でも僕はこの数学と人間の概念との間にある差みたいなのを強く感じるものは物理現象を数学で表したものに感じますね。数論とか解析とかトポロジーとかにはあまりそれは感じません。ステレオタイプな言い方になりますけど、ようは純粋数学寄りの数学のほうがより精度が高いという感じがするんですね。数論なんて最たるものだと思うんですが。


iyiさんが言うような発見や創造にともなって感覚の種類が増えるというのもそれはもともとあった感覚というのが発見や創造によって人間が自分たちに対して発見した感覚なのか、発見や創造にともなって感覚という風に理解されるようになったものか、これもなかなかどちらとも言えないような感じですよね。相変わらずiyiさんの話は核心を突いているなって思うんですけど、例えばネットなんかも使えない人と使える人って分かれるじゃないですか?ネットのシステムを理解できる人と理解できない人がいるんですよね。別にそれは知性の差なんではなくて感覚の差なんだと思うんですけどね。エンジニアだとか理系だけど無限の概念は理解できないって人もいますし、有限的な立場に立った数学しか理解できないという人もいますし、でも凄く面白いのがそれが知性の差によるものではないということなんですよね。凄く感覚的なものというかなんというか、でも新しい世代とかは生まれた時からネットがあるわけで言わばネットというのはインフラの一つなのでそれを理解するのは全くネットが無かった世代の人たちよりかは楽かもしれませんが、でも根源的なシステムや構造というのを理解できるかどうか?というのは感覚に依存すると思ってますね。ずーっと僕はこれは知性の差だと思ってたんですがそうではないみたいです。それが身近にあれば感覚は勝手に養われるのかもしれませんが、そうとも言えませんよね。やっぱり。なんでネットを例えに出したのか分かりませんが、まぁなんとなく言いたいことはある人にとっては当たり前に理解できることでもある人にとっては全く理解できないというものがあるということですね。で、これは知性の差なんではなくて感覚の違いなんだということなんですね。間違っても感覚の差ではないですね。理解できない人の感覚がダメなのか?って感覚って色々あるわけですから比べようが無いんですよね。


僕が具体的な数学が苦手で抽象的なものしか理解できないのも感覚に依るものだと思ってるんですよね。なぜこの得意か苦手かというのが明らかなものとして顕在化してくるのか?というのはやはり所与のものというかそういう人間の特性だったとしか言いようが無いというかなんというか・・・。でもあれなんですよね、一万年の昔といっても例えばエジプトのピラミッドとかって5000年前ぐらいのものじゃないですか?でも明らかに古代人というか建設に携わった人たちって現在の目から見ても高度としか言いようが無いレベルの数学を駆使してたんですよね。それが数学として伝えられていないだけで明らかに三角法とか駆使してますし、微積分なんかも理解してたと思うんですよね。これは本質が変わっていないという一つの証拠だと思うんですよね。そんなに大昔にこんな高度な数学の知識があったのか!と不気味に思えるぐらい本質が本質として残っていますよね。まぁその本質というのを我々は建造物の中の数学とか建築という技で感じたりできるんですよね。


推論無しで概念が浮かぶってむしろ当たり前なことで、推論というのは概念を誰でも理解できるように体系化するために推論という形式を取ってるに過ぎないと思いますね。そこで面白いのが武道の型なんですが、僕が帰依している流派では型というのが昔の侍の動きをそのままあたかも鋳型のように残った原形であるという考えを取ってるんですよね。でも実際はほとんどの武道で型とか技は形骸化しているんですが、はっきりいって自分が帰依している流派は唯一その型が完全な形で残っているものだって言い切れるぐらいのものなんですよね。それがようは昔の侍のリアリティなんですよね。刀を抜くということが生死に直結していた時の臨場感って現代人が感じることって無理なんですよね。想像力豊かな人なら別でしょうが普通は無理です。そんな中で侍の論理の世界というのを臨場感を感じられない現代人でも分かるようにしてくれるのがまさしく型なんですよね。これが数学における推論と同じような役割を果たすわけです。


で、極論を言えば刀の最善の抜き方とか振り方とかってそれこそ超越的に考えればiyiさんが言うような完全普遍なものってあると思うんですよ。イデアですね。ようはこれ以外に最善の方法は無いというむしろ消去法的なものなんですが、数学もそうですよね。全てのものに無駄が無くて概念や証明などにそのまま直結してますよねといってもそれはジャンルによるんですけどね。そこが最初に書いた確率論と純粋数学みたいな話に戻るんですが、これ以上表しようが無いとか文節のしようがないという「もうこれ以上やりようがない」という限界こそが論理の限界だと思うんですよね。それが人間にとっての完璧に近いものなんだということになるんですが。そういう意味で俗流な言い方になるんですが、確率というものを完全に把握できてたら色んな意味でラプラスの悪魔が成立しますよね。それこそ恐慌とか災害とか予測できたり回避できたりするようになるわけですよね。でも実際は無理なんですよね。


結局は確率なんていっても数学的に理解されうる部分のみを人間が便宜的に数学として理解している意味での確率なんであって厳密な意味での確率なんてそもそも理解しようがないということなんですよね。それはマンデルブロも同じようなことを言ってたんで間違いないでしょう。まぁようはフラクタルの世界なんですが、こういう世界観には常に直感では何となく理解できても数学的に厳密に定義するのが難しいということがあるんですよね。これは僕が最初に書いたような人間の限界ということなんですけどね。でもその反面、分かる人には分かる感性的な直感とか数式とか無くて概念でそのまま理解できるっていう凄いところもあるんですよ。その辺の差というか直感と数学との間というかなんというか、でもこの辺の話はゲーデルとかノイマンとか名だたる数学者達が色々と考えてきたことなんですよね。実際に分かってる人には分かってるし差が存在することも分かってるんですよね。でもそれが何なのか?というのはイマイチ掴めていないという。


確率と予測は別だなんて話もあるとは思いますが、僕に言わせれば確率論こそが現実を無視した都合の良い扱いやすい道具なんだと思うんですよね。扱いたくないような量の変数とか見えない値とかも全て入れてこその確率論だと思うので。それが可能かどうかは別なんですけどね。でもそうじゃないと確率論とは言えないでしょう。


この辺の話に一番近いのがルネ・トムの「構造安定性と形態形成」という本なんですよね。でも面白いことにルネ・トムは晩年はほとんどゲーデルのように哲学に没頭していたそうです。まぁ哲学というよりかは哲学的なものですね。実際は生物学とか他の色々な分野もあるんですが。ただそういった研究が学術的な結果を残さなかったというのはゲーデルもトムも同じのようです。でも軌跡を知るというのは現代人にとっては凄く価値のあることだと思うんですね。なので僕はより数学にのめり込むことになるんですが。


そんな感じでとりあえずルネ・トムの「構造安定性と形態形成」を読んでみてください。簡単な本ではないんですがこういう下手をすれば形而上学的になりがちな話が数学という具体性を持って具現化されているものなので、なんというか数学によって概念を思考するということが凄く鍛えられる本だと思います。数学によって概念を思考するという意味ではやはりブルバキの一連の著作もそうなんですけどね。こういうのって言葉だけだと形而上学的になりがちですし、言葉によるからこそ厳密性を欠くところが出てきちゃったりすると思うんですよ。言葉は所詮言葉ですからね。でも数学って違いますからね。言葉なんか比にならないぐらいの概念的な直接性がありますから、だから数学によって概念を思考することって必須なんですよね。思考や概念がありつつも厳密性や具体性を数学によって担保するという感じでしょうか。ポストモダン哲学の逆ですね。あやふやなことを数学風にあやふやに言うんではなくてあやふやなことを数学によって具体化させて厳密化させるということですね。そういう抽象的ながらも具体性に立脚した思考というのを数学というものは見事に提供してくれるものだと思っています。


そういうわけでこの辺で失礼します。あとあれですね、進路なんですけど親とか関係ないですよ。やりたいことをやったほうがいいです。恐らく数学や数理哲学では食えないとは思いますが、やりたいんだったらやるべきですし、真に科学的に哲学をするために学位などが必要なのであれば進学するべきだと思いますね。この辺は求道で食える道ではないのでそこに骨を埋める覚悟でやらなきゃいけないんですが、僕みたいにそれぐらいしか人生でやることがない人間にとっては選択の余地がないぐらい簡単なことなんですが、将来的なオプションが色々ある場合はやはりそれに照らし合わせて考えるしか無いでしょうね。でもすみません、僕はそういう他にオプションがあった試しがないので全然それらしいアドバイスができません。だからとりあえずやりたいことをやれ!ってことになるんですが。


普通の幸福とか家庭とかを考えずに学問のことだけを考えてれば必要なものは限られてくるので、なんとか自分一人が食っていけるぐらいの道なんてなんとかなるだろうっていうような現実的な楽観的な話ってのはありますよね。変な話、食料さえあれば庵と書籍があればあとはオッケーぐらいの世界観ですね。そもそも自分にとっての世界が学問なのであれば自分の身がどうであろうと関係ないですからね。むしろ身軽なほうが学問はやりやすいとも言えると思います。まぁオススメできる道ではないんですけどね(笑)色々とやれる道がある中から選択するにはなかなかの勇気がいるものだと思いますね。そういう意味で僕みたいなオプションゼロの人間は道に迷わないのでそれは楽と言えば楽ですね。もう色々と迷いたくないから僕みたいな人間になってしまうとかって手もあるかもしれないですね(笑)


でもこういうタイプの人間は選択なんてしてないんですよね。心が赴くがままですから選択なんてしなくていいんです。そういう作為性みたいなのを介在させなくても自然とそれをやりたいぐらいに思えるんだったらやっぱりそれをやるべきだと思います。そこは才能とか知能だとかそういう話ではなくてやりたい意志の問題だと思いますね。なので結局はiyiさんの意志というか情熱次第ってことですね。情熱を優先させるのか、世間体というとアレですけど、現実的に身を立てる道を優先させるのか、それは本当の本人次第としか言えませんよね。んでも若いんだったらとりあえず情熱優先の道を選んでダメそうだったらそこから身を立てる選択に戻すみたいなやり方とかできるじゃないですか?それは若ければ若いほどそのほうがいいですよね。やらないで後悔するよりもとりあえずやっちゃったほうがいいっていうことですね。