でいじさんへの返信。

デイジ

人を好きになるってビッグバンですよね。ビッグバンだよ。もう。生物というプログラミングされてるその絶対的なものってもうすごいですね。酔ってます。耳せみさんが嫌いな酔っ払いです。しらふになったとき嫌になるだろうな。きっと。今のこの節操ない時間。何かさー。あ、自分は大分まえからの訪問者です、。ミミせみさんには生きてほしい。ぷれっしゃーかな、でも生きていてほしいな。失恋して勢いでヨーロッパいってきた。引きこもりがだよ。すごいね。みんな勝手に物語を紡いでいるんだよね。素敵ですね。認証がんばる。虚しさのこるだけだけど、誰かに吐露しないとむり

 

 

なんかの勢いとかショックとか立ち直れないようなことがきっかけで思いきれる時ってありますよね。その時はめっちゃ辛いんだけど何年後かに考え直してみるとあの時立ち直れないかも・・・とすら思ったけど結果的に濃い経験値になったなって思えるとかね、いや、んでその勢いでヨーロッパって最高だと思いますよ。なんつーか必ずしも変化って快から生まれるものではないですからね。「なんとなくヨーロッパ」よりもエピックなまでの失恋があってのヨーロッパはまさにエピックだと思うんですよね。

 

みんな勝手に物語を紡いでるってアメリカとかヨーロッパに行かないとなかなかそれを実感できないかもしれないですよね。デイジさんにとっての今のメンタルの感受性でヨーロッパに行ったからなんつーか感情がモロだったんじゃないでしょうかね?だからそういう気づきがあるっていう、それは辛さと紙一重なんだけど仮に失恋した相手と上手くいったとして、んでその相手と行くヨーロッパ旅行じゃそういう気づきは得られなかったと思うんですよね。何もかもが上手くいくとかリア充とかってある意味成長しない場合もあるわけですよね。楽しいし上手く行ってるからそのままでなんか頑張る!とか生きなきゃ!っていう風にならなかったりしますよね。なんだかんだで辛いことがあったほうが成長するもんなんですよね。

 

まぁそういう自分もまた最近成長したんですよねっていうかまぁビルを取り戻せ!っていうきっかけとなるようなことが連鎖して物語みたいになっているっていうことなんですけど、なんかそのおかげでまた色々と欲望が凄くなってきてるっていうんですかねっていうかまぁ日々アッペンダウンが激しくて安定しない日々が続いてるわけなんですがなんか死ぬほど面白いことないかなーとか凄まじい興奮を伴うセックスしたいなーとかたまに外出てもあんな子の中で発射できたらもう死んでもいいなって思えるようなむき出しの感受性がまた復活してきてるんですよね。

 

ただその反面、ようはそういうものがむき出しになっているからこそ特に何もない毎日に耐えられなくもなってきていて、かといってもまぁ変に達観してるよりも欲望の中であたふたしてるほうが楽しいしこないだの離脱症状も本当に強烈な体験でああいうのってまぁ廃人が経験するような類のものなんですけどでも強度はありますよね。んで薬飲んでだんだん戻ってきてまた一気に躁状態になる!みたいな感じでそんな感じで最近ずーっとマッシュアップ作ってるんですけど(笑)まぁでも生きるってことに関してはまぁそんなにもう考えないですよね。飽きたらすぐ離脱する派ですし(笑)生きるということよりも日々の強度かなって気がしますね。

 

なんつーかそれがあれば生きていけるだろうなという気はします。つまりは自分のマインドセットですね。欲望して死ぬほどヤリたいと思う子と実際にヤルというむき出しの感情を抑圧することなくそのまま出すということですね。なんつーか適当に環境に適応してそれなりにやっていくっていうのに反吐が出ている状態でして、そこは生の強度のためにも逸脱し過ぎない程度に自分のそのままをフルパワーで発揮したほうがいいんだなって感じる今日この頃です。

 

人を好きになるって掛け値なしに素晴らしいことですよ。shit過ぎる日々の中で光を与えてくれるそれこそでいじさんがおっしゃる生物学的にプログラミングされている合理的か非合理的か?みたいなのを超越できるようなものですよね。辛いからそういうのを求めないっていう守りに入るのは簡単ですが、そうなったら人生のクソゲー化は加速するばかりで、何もかもが合理的に処理できる今の情報化社会で唯一そういうものにカウンター的に尖り続けることができるのは損得を超えた内発性による動機づけだと思うんですね。心がそれを求めてるとかちんぽがそれを求めているっていうような、知性とかではないソウルのレベルのものですよね。

 

そういうわけでやっぱり求めるものは合理/非合理を超越したスポンテニアスな内発性に集約されると思いますね。結果それをやったところでどうなの?とかっていうそういう人生設計みたいなのとはかけ離れた衝動性と強度ですね。もはやもうそれが無くては現代社会ではゾンビになるしかないわけですよね。身を捨ててでもその内発性にコミットできるかできないか?というのがマインドセットのあり方を規定するものですよね。

 

仏教でも求めればそれは得られるみたいな教えがありますしそれは一見煩悩とはかけ離れたような教義に見えるんですが結局は求めるものや求める精神のステイトはそれを渇望しなければ得られないというような、ここに僕は現代的な自己啓発メソッドのようなものと深遠な仏教思想なんかのインターセクションを垣間見るわけでして、そこにやはり真理があると思うんですよね。つまりは人間臭すぎるぐらい人間的であるということですよね。それを抑圧せずに存分に発揮することですよね。

 

そういう意味でリミッターって生活の中で知らないうちにどんどん課せられるようなものだと思うんですよね。リミッターを外しまくってるつもりでも色んな柵でリミッターという足枷をつけてしまうっていう、そこをいかに日常に埋没せずにある種の超越性と究極的な強度を求めるattitudeという姿勢を維持しつつそれを実践していくっていう生き様で自分の物語を紡いでいくというその紡ぎ方こそが即人生ということになりますよね。それは常にプラクティカルということが必須なわけで思想も行動原理も常にプラクティカルで観念的過ぎずに即人生の実践に繋がるような実践的な力のプラクシスということになるんですよね。原則的には完全にスピノザの力の思想なんですが、これはもうニーチェにも継承されるように強度を求める人間には必然的についてくるプリンシパルなんだと思うんですね。

 

それが結局は善であるとスピノザは言っているわけですよね。それがつまりそれを実践することが即オントロジーなんだというわけでそれは政治的なマルチチュードや知的なものを常に磨き続けて改善し続けるというようなattitudeに直結するわけでこれは究極的に革命的で良い意味で反社会的でソリッドなものだと思うんですよね。常にエッジに立ちつつ保守的にならずに常に挑戦していくという姿勢ですよね。

 

そういうものが結局は自分のソウルっていう魂を規定するものになるんですよね。それがマインドなんであって同時に魂であり生き様であるということですよね。それを貫き通すのは大変でもそれをやらないと生きていけないほど不器用であるということは強度の面から言えばむしろアドバンテージなわけで、それならそのアドバンテージを使わない手はないですよね。

 

ちなみに今の自分もだいぶ酔ってますが(笑)とにかく足枷であるリミッターをどんどん外していくっていうことですよね。

 

そんな感じで今日はこの辺で失礼します。