オットーとシャノンの「驚き」について。

ミックス録音したんで。

 

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積読になってたオットーの「聖なるもの」を読んでるんだけど「ハッ」とさせられたのがヌミノーゼなんだけどまぁこれは概念的に難しくて簡単に説明できるようなもんじゃないから詳しくはググってほしいんだけどまぁヌミノーゼに関しては去年開眼してからすぐにオットーを読んでたんで知ってたんだけどなぜかほったらかしになってたんだけどまぁ本を膨大に買うと読むのが追い付かなくて結果的に出費が無くてその分レコードに回せるなーレコードだけにとか思いつつまぁそれはいいんだけどね。

 

「理解される神は神ではない」っていうテルステェゲンの言葉があるんだけどなんつーかさ、「信仰する本能」って本を買ったって前に書いたけど読んでて思ったのはまぁその一般的な神の理解とか神という存在が観念的に本能的に内から発生してきたり介在しているような感覚を覚えるとかっていうことも所謂それは内が作り出した人間が想起できる実際の神とは何の関係も無い神なんであって所謂俗理解というか世俗的宗教の特徴とも言える神の像よね。

 

リアルな神はもっと難しいどころか理解することすら困難だったり・・・ってのはいつも書いてるけどオットーみたいにキリスト教ズッポリの護教家と違って色々な宗教をそのオリジナル言語を習得して例えばあと日本にまで来て座禅をやってただとか、その動機付けって神の理解だと思うんだよね。

 

宗派とかは違っても神は恐らく一緒であろうっていうような直感というかね、んでまぁその俗理解ってのがようは「まるで神様が導いてくれたようだ」とかってまぁ良いと思うんだけどね。素敵やん!っていうそれに尽きるんだったらロマンとしてありだと思うんだけどリアルに考えるとそんな人間に理解すらも不可能なものが人間なんていうちっぽけな存在の些細なことに介在するのか?って話だよね。

 

別に否定はしないけど疑問だらけよね。んでまぁドーキンスとか他の激しい宗教批判ってまぁ大体こういう俗理解の神に対して妄想であるって言ってるんだけどまぁそれは正しいとしか言いようがないし何しろその俺が言う俗理解というのがまさに妄想としての神だからそれに関して言えば全くその通りということになるんだけど実際の神となるとある種専門的過ぎるのと俗理解の神概念というのがデフォになっている世の中だと見向きもされないというか俗理解の神概念がドミナントなものだから介在の余地が無いんだよね。あとまぁ書いてあっても難しい専門書とかになるから分からない人にとっては徹底的に「?」なわけだよね。

 

だからその神様がいるような気がする系の神への批判ってのはドーキンスみたいな代表的な批判は本当に妥当だし仮に本当に神を理解というか理解できないものが神だと知っているものからするとそれは俗理解の妄想としての神への批判なんであって神そのものへの批判ではないということが分かるはずなんだけど護教家は必死に弁護するよね。

 

だからもう護教家ってのは基本的に神を理解してない世俗的なキリスト教なり宗教の理解なんだなっていうことになるよね。それが仮に高名な神学者とかでも全然それは関係ない。高名なのも世の中の神の理解に沿って高名になっているだけであって本当に神を知っているわけではないからね。

 

あとまぁドーキンスとかの批判だとそういう妄想から来る色々なネガティブなことだよね。ジーザス・キャンプみたいな低IQの連中が信奉するようなカルト化しているキリスト教もさることながら「こっちがマジの神だ!」とかって言いだして戦争をするとかよからぬ面ってのは腐るほどあって元々俺は神道みたいな民間のものは別として権力的な宗教が大嫌いだったからドーキンスとかに本当に共感してたんだけどリアルは違いましたってのが去年分かったってのが俺の契機だったってのはいつも書いてることだけどね。

 

そこでまぁオットーが言う「絶対他者としての驚き」というのが例えば予備知識としてあるような多神教からキリスト教からイスラムから神道まで色々あるような神のイメージではなくてそれとは全く違うものであったっていうところからの驚きがあったわけなんだよねっていうか俺が啓示とかって呼んでる体験がそれなんだけど別にオットーは従来の神の像とは違う絶対他者としての驚きって言ってるわけじゃなくて端的に神との出会いというと語弊があるけどようは垣間見たときに驚きがあるっていうんだけどそこがまぁヌミノーゼの概念の中に入っててまぁそれと同時に「魅了するもの」とかっていう別の概念も入ってくるんだけどとりあえず今日はその驚きっつーところにフォーカスしたいんだけどそれと同時にオットーはまさに驚いたことに空の概念も驚きだって言ってるんだよね。凄くない?この洞察。驚きだよ。まぁこれはオットーにだけど(笑)


で、理数系の人ならもうピン!と来てるかもしれないけどっつーか何人がこれ読んでるのか知らんけど(笑)そうなんですよ!シャノンの「情報とは驚きである」っていう例のエントロピーの話と同じなのよね!端的に言えばシャノンの驚きってのは情報の価値というと語弊があるけど価値は相対的でこっちがどれだけそれについて知っているか?ということでその情報の価値が決まるからありふれた情報なら価値は無いし全く知らない情報なら価値があるっていうことなんだよね。相当単純化して話すとまぁようはいきなりエイリアンが来たらみんな驚くのはその情報を知らないからだよね。

 

んでまぁこれを勝手に俺流に解釈すると聖書でもコーランでもなんでもいいんだけど俗理解の神に関する情報というのは地域とか国とか家庭によっては嫌でも子供の頃とかに詰め込まれるものなんだけど実際の神というのはそういったものとは全く関係ないものだからこそリアルな神というのは絶対他者だからそれ以前に全く情報の持ちようがないからそこに驚きしかないっていうことになるんだよね。空然りだよね。空は概念的に理解できるけどでもまぁ時間かかるし西洋的オントロジーのルールガン無視だし分かったときには驚きしかないでしょう。

 

そういう情報の徹底的な非対称性だよね。それがようは人知が及ばない絶対他者としての神ということになるんだよね。だからそれは世俗宗教の神とは全く関係が無いし、そもそも事前に情報を仕込むことができるような神の概念はもはや神ではないか、もしくはドーキンスがディスるような人間の妄想であるってことになるんだよね。でもなんかこれって禅っぽいよね?まさに禅問答みたいな話なんだけどそこでまぁオットーってインドだか忘れたけど東洋の神秘主義とエックハルトの神秘主義の比較とかをやってるじゃん?まぁようは分かってんのよね。オットーは。

 

もちろんエックハルトも分かってたか分かった契機があったに違いないし龍樹とかも分かった契機があったんだろうけどまぁブッダはそれを菩提樹の木の下で悟ったわけでその悟ったものって恐らく同じなんだよね。でもそれが何なのか?っていうと言語化はできないんだよね。ただ知っていてそこに驚きがあってそれが真理であるということで救われるようなものであることは確かなんだよね。

 

だからブッダの言葉はありがたいし教典になるしキリストの受肉というのはその人知が及ばない絶対他者が人間のロゴスとして受肉した結果、キリストが言わば神の言葉の翻訳者のような役割を演じることで人間に知ることができない概念を授けたっていうことになるよね。

 

だからそこに神話って必要ないんだよね。むしろマリアは処女で身ごもったっつーより元々結構なヤリマンビッチでヨセフというフィアンセがいながらセフレが何人もいて父親が分からない子供を身ごもってしまってヨセフは「マリア・・・あいつヤリマンだったのか!」って思うんだけど神のお告げで「マリアは確かにヤリマンかもしれないが宿った子供は聖霊によるもので神の子であるから産ませなさい」というのがあったんだよね。

 

だから物理的には人間と変わらずファックによってできた子供なんだけどそれは聖霊に犯されたという意味ではなくて他の不特定多数のセフレの一人だったんだけど宿った子供は聖霊によるものでそれは神の子とされたっていうことなんだよね。そういうのってリアルでもあるじゃん?母親が超絶ビッチで父親は行方不明なんだけど子供は聖人君主みたいな人間になったっていうような一概にDNAどうこうではなんとも言えないような子供が生まれてくることもあるっていうことだよね。

 

でもそれは聖人君主が普通の夫婦から生まれてきたというような類のものじゃなくて究極の一回性の神の受肉だったんだよね。三位一体とかも俺の今の理解だと人知が及ばない絶対他者がFPSのプレイヤーでネットワークとか媒介とか操作のインターフェースってのが聖霊でキリストがヴァーチャル空間のキャラクターという感じだよね。でもそれは神が操っていたというほどの直接性は無くてロゴスを届ける人間だったんだよね。

 

その人間であったというところに重要性があるんだよね。だから奇跡とか復活とかどうでもいいわけよ(笑)護教家は大体奇跡か復活に寄り添うよね。で、それが無かったら全てが崩壊するとまで言ってるけどそんな脆弱なもんじゃないんですよ。キリスト教ってのは。

 

まぁキリスト教ってのはマルクス主義みたいなもんだからもう全然本来と違っているものだから「キリスト」でいいのかもね。そのキリストという神のメカニズムよね。仏教の場合、ブッダが悟りを開いてそれを書かなかったけど弟子とかに伝えたものだから結果的に神のロゴスが伝わるようになったんだけど別にブッダはキリストのように神格化されるけど神ではないし化身でもないよね。まぁ神とする場合もあるのかもしれないけど人間だよね。実際ブッダも人間のように死んでるしキリストも磔になって死んだからね。

 

でもそれによって絶対他者の全てではないんだけど人間が理解可能なほんの一部分の真理をおすそ分けしてもらえたっていうことだよね。でもその言葉を理解したからといって神を理解したということにはならなくて神というのは依然として理解不可能なものなんだけどブッダなりキリストというものを通してっていうかまぁブッダは置いておいてキリストに限ることにするけどキリストを通して翻訳してくれたんでそんなに多くないワードだったかもしれないけど福音を残してくれたわけでしょ。それが人間にとっての救いになるわけだよね。

 

だからまぁ原罪とかも旧約聖書とのつじつま合わせだよね。まぁただ旧約聖書の話ってのが今では想像できないぐらいデフォルトの話だったから無理やりこじつけて地続きにして論理的整合性を保つという権威付けに旧約聖書が使われたとしても不思議はないよね。

 

まぁそこで旧約とか関係なくね?っつって新約だけで宗教を成立させようとしたのが異端のマルキオンなんだけど異端扱いされたから徹底的に残したと思われる文章とかは無くなっていて残っているのは批判とかばっからしいんだけどいち早く気づいていた一人だったのは確実だなと思ってるよね。エックハルトにしても当初は異端扱いだったわけだしっていうかその異端扱いする側ってのがもうキリストの名を借りた権力だったからね。

 

何をもって神とするのか?とかは関係ないもう教義が権威みたいなさ、今のバチカンに通じるようなもんよね。まぁ端的に言ってクソですわ。それで中絶反対とか同性婚反対とか言ってるとか矛盾してるじゃん?なんであんな慈悲深いとされている神が中絶反対とか同性婚反対するわけ?ってことだよね。

 

あとまぁ教義で言うとパウロだったかが教会に女を入れるな!みたいなことを言ったから女性が神父になれないとかまぁそれって当時のポリコレとか古い時代のジェンダー観じゃないっすか?それを教義として今も守るなんつったらガッチガチの男尊女卑になるでしょう。そういう柔軟さが無いってのも教義にこだわるとか違ったらもうそれは異端とかキリスト教じゃないとかね、そんなの馬鹿げてるよね。

 

世界的なキリスト教離れっつーのもそういう妄想としての神を信じるほど現代人はもうナイーヴではないということの証左なんじゃね?って思うよね。ただそこで誤解されちゃうのがキリスト教=世俗宗教という図式なんだよね。キリスト教なんてオワコンで誰も信じねーだろうっていう、ただリアルなキリスト教は違うんです!ってのを誰かが言わなきゃいけないんだろうけど俺は今後も神学の徒としてキリストの徒としてそれを言い続けますよ。

 

んでまぁそれってだから制度的ななんたら教会に所属していますとかっていうことじゃないんだよね。それはただの社会制度なわけで仏教でいうところのよく分からんけど檀家制度みたいなのと同じなんだよね。それって仏教の本質とは全く関係ないでしょ?もっと言っちゃえば信仰とも関係ないよね。

 

だからその本質からより遠ざからせるような誤解を生むようなものってのは強い言い方をすれば冒涜的だよね。アンチクライストどころの話じゃないよね。本質的な教えを曲げているし利用してるわけだからね。「神の名のもとに」っていう前提で為される利己的だったり保身的だったり護教的だったりするものってのは全部冒涜だよね。すぐに辞めてほしいって思うぐらいリアルな教えというのは貴いんだよね。

 

ただ仏教は上座部的なものとかガチで修行しかしてないようなレベルの人たちの間では抽象的で高度な教えってのがちゃんと守られてたり理解されてたりする感じがあるけどキリスト教は酷いよね。本当に酷いぐらいの俗人ばかりというかね、なんかまぁその草の根宗教改革を俺がやっていかねば!とかって勝手に思ってますね(笑)世間的に見れば俺は完全にクレイジーだけど俺から見ると世俗的宗教のほうがよっぽどクレイジーなんですよ。

 

まぁその確信があるのはエックハルトからオットーまでってざっくりし過ぎだけど(笑)全体から見るとほんの一部の神学者だけど立派なソースがあるからね。俺の妄想で言ってたら完全にクレイジーだけど山ほどある神学の情報から取捨選択して先鋭化させたものから出てくる必然的な帰結というかね、まぁ論理的なんだよね。もちろんあれよ、いつもべた褒めしてる京都学派界隈の宗教学研究とかも踏まえた上でって踏まえたってほど読み切れてないけど、まぁ言うまでもなく世俗的宗教は非論理的で相当狂ったことを平気で言ってるんだよね。オカルトめいたことも言うもんだから手が付けられないよね。んでまぁ哲学って論理じゃん?

 

で、神学も論理だと思うんだよね。神は分からんけど学は論理的じゃないといけないわけで論拠を復活だの奇跡だのとするようなものってのは原始キリスト教から見れば形骸化したような現代のキメラみたいなものでほとんど価値が無いし読んでて気持ち悪くなるなっていうのがあるよね。その「気持ち悪い」って感覚は凄く重要なんだよね。音楽とかもそうだけど聴いてて不快になるとかさ、全然良いと思わないとかってすんげー重要なジャッジじゃん?それと同じなんだよね。

 

論理とか知性と同時に感性でもあるっていう、そこの特に感性の部分は神の周波数に合わせるということだよね。そこはまぁヨーガっぽいしアトス山とかでやってるような祈りとかに近いものがあるよね。祈りは願いじゃないからね。まぁそういう祈りもあってもいいと思うけど基本は周波数合わせよね。何かをお願いしたりするようなもんじゃないし神ってのはそんなことをお願いできるような存在じゃないわけよね。

 

逆に願うことができるような神だったらそこに驚きはないでしょ。頭に思い描いている神っていう情報との対称性があるわけじゃん?全くないかほぼ無いからこその凄まじい驚きなんだよね。それが絶対他者ということなわけだ。

 

ってことで新年早々ぶっ飛ばしまくってアツくなっておりますが、まぁこんな感じで今年も爆走できたらいいなと思っておりますね。

 

ってことでんじゃまたっつーか次回ネタが無かったら続き貼るんでんじゃまた。

 

あ、んでシャノンとかオットーに関しての参考文献なんつーと大げさだけど(笑)まぁ参考になるようなのを適当に貼っておくね。

 

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