拝一神教について。

LANDRっつーディストリビューションサービスなんだけど年会費が自動更新になっててコロナで金無いっつーのに年会費が自動で更新されちまったからなんかリリースしてやろう!って思ったんだけどサンクラに大量に上げてる過去に作ったノイズとか音響っぽいやつとかを一気に登録したんだけど驚いたことにLANDRってリリースまでクソ遅かったのよ。

 

「ジャケを直してください」みたいなメールが一週間ぐらい経って来たりとかね、ただ今回は登録したら曲名が浮かばないっつーかただのノイズだからトラック名を「1」とか「2」とかにしてたらless genericなタイトルにしてくださいってことで色々と名前つけたんだけど膨大にあると考えるのが面倒だから例えばヒップホップのスラング一覧みたいなのを開いて(笑)そっから適当にチョイスするとか日本のAVのタイトルの英訳みたいなのを探して片っ端からそれを曲名にするとかして色々出したんでね、んでタイトル直したらリリースまですげー早くて驚いたのよ。ディストリビューションサービスも競争になってるから人員増やしたのかな?とか思いつつ資本主義の競争って熾烈だよね。

 

っていうかLANDRが逆にいいなと思ったのが確実かどうかは分からんけど年会費払わない場合、曲の売り上げとかストリーミングから15パーセント引かれるだけで永続的かどうかは分からんけど年会費払わなくても乗っけられるか、あとはまぁそんなに高くない年会費を払ってればいいみたいで俺みたいに元が取れるわけない人間としてはなかなか良いんでない?って感じだったよね。

 

サンクラのRepostも審査は速いんだけどリリースまで時間かかるからLandrがいいかもしんない。ただ入力面倒なんだよね。めっちゃ力入れたやつで「出したい!」ってやつは真剣に考えるし面倒に思わないけど過去音源とかだとどうでもいいから(笑)手間だからやりたくないっつーのがあったんだけど安くない年会費っつーか一番良いプレミアのままだったから結構取られたから元取れないにしてもリリースせねば!ってのがあってこないだ買ってきたCD群を聴きながら作業したりしてたんすよね。

 

あと10年以上前に作ったフィールドのやつなんだけど間違えてサタニックの名前で出しちゃったんだけどまぁいいかってことで。

 

J.K. Is Bravely Expose Bare Legs in Midwinter

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  • 発売日: 2021/03/04
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
Fragments of Memories

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  • 発売日: 2021/03/05
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

ってことで本編ね。

 

学問に王道なし!ってことで音作り以外はほぼ読書に費やしてるんだけど拝一神教という概念を知ったんだよね。まぁ絶対的一神教ってのは他の神を認めない中で拝一神教は他の神々を認めつつその神を唯一神だと認めて崇めるっつーことなんだけど実質的に旧約聖書のヤハウェの時代からは拝一神教がデフォっていうかイスラムでも「あなたを神として崇めます」みたいなお祈りがあるけど前提が多神教なんだよねっつってもそれを「教」と言っていいか分からないけど世界像が「神々の世界」なんだよね。

 

そこで私はあなたを神と信じますっていうことなんだよね。それってのもまぁ紀元前の宗教って詳しくないけどまぁエジプトとかさ、色々いるじゃん?太陽の神だの死の神だのさ、そこでまぁ旧約の舞台になるようなところでも旧約成立以前に土着信仰ってのが色々あったんだけど一貫性を持たせるために恣意的な操作をして一神教に仕立て上げたっつー感じなんだよね。

 

まぁその恣意的な操作ってのが旧約成立時のストーリーとかのつじつま合わせだよね。あと元のヘブライ語では多神教を匂わせる雰囲気があるんだけど特に新約とのつじつま合わせとかってのもあって都合のいいように翻訳されてるっつーね、いやーこりゃひでーなって思いましたぜ。旦那。

 

昔は学術的厳密性なんてのが無い時代だったにせよそれが現代で分かっているのにも関わらず意味不明な旧約と新約の橋渡しっていう無理があり過ぎるものに整合性を持たせるために分かってるのに意図的にヤハウェ以外神がいなかったような翻訳の仕方をするってもうありえないでしょ。

 

まぁいつも書くけど一般で信仰されているキリスト教と厳密で学術的なキリスト教って全然違うんだけど学問的にはまぁライトみたいなクソみたいな保守派とかもいるんだけど基本的に誰が読んでも明らかなように旧約で神とされているものと新約によってキリストが父と呼んでいる神は違うわけだよね。

 

なにしろ旧約の神はジェノサイドの神だからね。神とは思えない(笑)些細なことで怒って平気で人を殺したり民族を静粛したりするわけで、それと比べて新約の神はキリストが語り掛けるだけで全く出てこないからね。胡散臭いセリフを喋ることもないし基本的に出てこないんでぶっちゃけいるかどうかすらも分からないっていう感じだよね。まぁもちろんブルトマン的な脱神話化をするとって話なんだけどまぁ今後はいちいち書かないわ。脱神話化がデフォということで。

 

だから前も書いたけど神学論争っていうか神ってどうなの?っていうことに関しては話は終わってるよね。未知の体験があった人にとってはいるだろうし見たことも感じたことも無い人には分からないっていう言わば良心的不可知論になるしかないんだよね。良識的っていうのはいると信じているけど究極的には分からないっていう信仰の立場ね。無神論ってのはいるわけないじゃんっつー文字通りのことなんだけど。

 

ただやっぱりどう考えても禅的な無としての神というのが一番しっくり来るよね。まぁ俺が最初に認めた神の像というのがそういう禅的なものだったってのもあるんだけど十牛図的なまぁ上田閑照の思想そのものなんだけどそれが一番普遍性があって矛盾が無いっていうさ、それが時代関係なくエックハルトとかのドイツ神秘主義のまぁこないだ書いたキリスト教異端の系譜ってのがあって、ただこれが実は凄くオントロジカルというか実存的な神だよねっていうか仏教とか禅の神の像とも似てるしブラフマンとアートマン的な関係とも一致するし、ただキリスト教が得意なのはキリストが受肉したっていうことだよね。もしくは受肉してないかもしれないけどブッダみたいな人だから偉大な人であることは変わりないからその辺の話がどうなったかで信仰が揺らぐということはないんだよね。

 

逆に奇跡とか超自然的なことに依拠した信仰ってのは神話が崩壊すれば信仰が揺らぐわけでしょ?でも逆に奇跡とかに依拠する信仰って何なのよ?って話だよね。それがまぁようはニーチェが呪詛の言葉をかけた弱者のための宗教ってことなんだと思うよね。リルはクソでも超自然的な神がいるというところに逃げるというアヘンとしての神だよね。これはまぁ現実逃避だよね。

 

ただオントロジカルな神というのは合一しようとしたり近づこうとしたりキリストなり使徒の模倣をするということだったり奇跡がどうのっつーより日々の実践とか生きるということと密接にかかわってるものなんだよね。だから関係性がある意味家族とかの誰よりも近いというね。その辺の実践をしてたってのが中世の修道士だった気がしてて、だからあの時代の修道士の書いたものってのは凄く霊的なものが多いんだよね。

 

学術的にどうとか論理とか言葉のゲームの神学ではなく真摯に神と向き合ってる中で出てくる神学なりエッセイだったりするんだよね。まぁ構造的に考えると仏教でも最終目的は悟りだったりブッダのようになることだったりするわけで現代風に言うと究極のロールモデルなんだよね。ロールモデルってのはディレクションを与えてくれるから生きることに迷いがなくなるというかね。

 

かといってもブニュエルのナサリンみたいにそれが思考無き原理みたいになっちゃうと道化にもなりかねないっていうね、まぁ道化で良いんだって話も無いこともないと思うけど全面放棄っつっても全てを捨てるということではなくてすべてを捧げるっていうことだよね。捨てるというとなんかネガティヴじゃん?そうじゃなくて生を捧げるってのはまぁ例えば趣味に人生を捧げる!とか格ゲーに命を賭ける!みたいな意味での捧げるってことだよね。

 

まぁ全身全霊を持ってコミットするということで何もかも捨てて修道士になるのが全面放棄というわけではないからね。そういう方法もあるけどそれは制度化された形としてのもので全身全霊を持って何かに人生を捧げるというのは仏門に入らないとできないことじゃなくてあらゆるジャンルでやってる人は在野っつーか在家でやってるわけじゃん?

 

ただ難しいのは何か直接的に「やる」対象がある場合は楽だし例えば神に人生を捧げたならこういう日課で生きなさいっつープログラムがあるのも楽よね。でも実際にやるってことはそういうプログラムが無い中でどうキリスト者として生きるか?っていうことだから日々が修行で鍛錬だよね。まぁだから思想に生きるっていうことと似てるっつーかほぼ一緒だと思うんだよね。その思想があってマルクス主義ならプロレタリア革命が目的だったりっつーなんらかのテロスがあったりなんかして、そのテロスなり思想の内容が異なるだけで思想に生きるっていうのは少なからずある種のストイシズムを必要とするものだし修道士的な要素が少なからず絡んでくるよね。

 

でもまぁ実践なんつって大変だよね。別に聖書は生き方ガイドブックじゃないから(笑)どういうときにどうするべきか?ってことの公理系みたいなのを与えるものではないけどまぁ例えばキリスト者なのにめっちゃDVとかさ、キリスト者なのに部下をいじめてるとかさ、まぁどんだけキリスト教に詳しくて教会とか通ってたりしてもようは重要なのって人間性なんであって知識じゃないからキリスト者だと思ってても実際は聖書読みの聖書知らず的なことになってることが多いよね。

 

何しろこんな社会でキリスト者として生きるなんて大変ですよね。ある意味時代錯誤もいいところだけどまぁそれは仏教徒もそうだろうけどそこがまぁ度合いの問題なんだろうなとは思うよね。緩い信仰だと一応信仰は持ってるけど基本普通の人と行動も考えも変わらないっていう恐らく大半の信仰者がそうだと思うけど一部のハードコアはユダヤのハードコアみたいに厳密にルールを守るとか律法的なことではないにせよ自分をキリスト者として律するということを徹底するみたいなね、まぁこれをやるのは大変だけどこれをやるのがキリスト者なんだと思うよね。

 

まぁここが思想のジレンマだよね。思想研究ばかりに走りがちで果たして実践は?っていうとまぁモノによるけど実践するとテロになっちゃうみたいなのも含めてまぁ色々大変なものだよね。だからこそまぁやれる人は限られてるよね。っつーのも思想に生きれるってことは元々思想に生きてるわけで、そこで何らかの思想が入ってきて感化されてそれに帰依するなり影響を受けて取り込んだりするわけだから元々思想に生きてるのかどうなのか?っていうところだよね。

 

あとはまぁ何らかのきっかけで思想に生きるようになったとかね、っつってもまぁそれがドグマ化するとアルゴリズム化された人間なわけでブニュエルのナサリンなんかはアルゴリズム化された自動人形批判とも言えるよね。まぁそういう輩が多くて非常に間抜けだ!っていうブニュエルの皮肉なんだろうけど面白いのがさ、宗教の批判者とかそれこそサタニズム的なブラックメタルをスタイルじゃなくてマジでやっちゃう人たちとかって凄く宗教的な人たちなんだよね。

 

何しろ宗教なんてどうでもいいと思ってる人は日常生活でふと頭にすら過らないじゃん?でもあんだけ固執して批判するなりアンチの姿勢を取るってことは逆に敬虔なんだよね。まぁああいうのもブラックメタルとかに凝ってた時期に色々読んだ結果分かったのはキリスト教がドミナントな国とかって所謂人間を縛るイデオロギーとしての宗教って言う部分が多いからパンクで言うところの体制批判がそのままアンチクライストになるんだよね。反体制ってのがそのまま反キリストになる。

 

でもそれは俗化されたイデオロギーとしてのキリスト教だから実際のキリスト教とはかけ離れてるしある意味なんつーかブラックメタルのドキュメンタリーとかでブラックメタリスト達が言ってたようなキリスト教の欺瞞とか偽善とかを批判するっていう意味では良いクリスチャンを装った偽善者よりよっぽどベクトルが善なんだよね(笑)

 

病んだインダストリアルの連中とかネオナチがやってるバンドとか白人至上主義のバンドとかは別としてブラックメタルっつっても真剣にキリスト教と全面戦争しようとしてるのは実はモラリストが多い印象があるよね(笑)まぁあんだけ児童虐待だなんだってのを隠蔽したり歴史的にもきな臭いことだらけでっつーか歴史を学ぶと本当に面白いのがこないだ書いたミュンツァーみたいに現状のキリスト教批判をしてる人が少なからずいるってことなんだよね。

 

キリストをアイコンにして侵略戦争したり十字軍なんつってもエルサレム奪還!みたいなわけの分からない理由でその辺のチンピラみたいなのを騎士にでっちあげて軍を作ったりとか批判しだすとキリないよね。シモーヌもカトリックながらも教会っつー制度に批判的だったり過去の十字軍がやってきたこととかカトリックがやってきた犯罪の数々ってのは酷い!って批判してたしまぁ歴史を見れば終わってる宗教なんですよね。カトリックって。

 

ただ文化とかイデオロギーとしての権力が広いだけで実際は愛想つかしてる人たちが多かったり児童虐待を組織絡みで隠蔽してたってことが分かってから良心的な神父とかがカトリックやめたりとかっていう流れがあって脱宗教化とか宗教離れっていうよりカトリック離れだよね。あんなの自業自得だからね。

 

教会離れが酷いっつーんで信者が個人的にキリストと関わり合いを持つんじゃなくて教会を通してキリストと関わり合いましょうみたいなことを言ってたことがあったけど何様だ?って話だよね。神がいるかどうかは別として神と人間との間に神は仲介者なんて作らないでしょ。あくまで直の関係しかありえないよね。教会はどっちかというと社会学的なコミュニティの要素とか社会的構成要素の話なんであって信仰とか霊性の問題とは関係ないよね。

 

もちろん教会があることが凄く重要な場所とかもあるからそういう教会の良い面ってのは全面肯定だけど教会に行かない人まで教会に行け!って強制するってなかなかありえないと思うんだよね。個人が勝手にキリストと関係してはいけないなんてある意味すさまじい反キリスト的発想だよね。

 

まぁ今後キリスト教が生き残るかどうかは別として宗教離れは不可避だけどアメリカのメガチャーチに代表されるような衆愚的なキリスト教ではない真のキリスト教ってのが宗教っつー壁を取っ払って普遍性を持つ必要があると思うんだよね。ハリウッドのセレブとかが宗教観とかあんまり気にせずに自然に仏教徒とかになるような、ああいう「そうだよね!」っていう必然から自然にその宗教に帰依するみたいなことだよね。

 

ドクトリネーションみたいな植え付けではなくてこないだ書いたような生きてる意味って何なんだ?っていう問い自体が宗教的でそこからの自然な宗教的開眼だよね。ただ既存のキリスト教はドグマティック過ぎて形骸化し過ぎていて精神性とは程遠いものになってるから本当の精神性重視のそれこそドイツ神秘主義とか教義をそのまま受け入れる必要はないにしてもアトスの修道士に見られるような霊的生活だよね。

 

ちなみにイスラム系の本もちょっと齧った程度でまぁ宗教全般ということで読んでるんだけどスーフィズムなんかも究極目的は神との合一なんだってね。凄くない?全部の目的が同じじゃん!っていうね。ただ文化とかコンテキストが違うだけで目的は同じってまさにこれこそが普遍性なんじゃないの?って思うわけね。

 

ってことで今日はそんな感じでんじゃまた。