行方不明の象を探して。その289。

僕はまた首をグルングルン回しながらウィスキーの残りを飲み干した。

 

「さぁじゃあ破片抜きと掃除の続きをやりますか」

 

酒の力を借りて、目の前の惨状に対処しようとした。しかし彼女は手のひらをこめかみにあてながらこう言った。

 

「もういいんです。作業は明日にしましょう。あなたはずいぶん疲れているようですし。続きは明日にした方がいいと思います。無理はいけませんよ」

 

彼女は微笑んだ。

 

「そういうものなんだ」

 

と言った。

 

「だってあなたはこの部屋の鍵を持っているでしょう?」

 

(誰かほかの人が来たのよ。誰かあたし以外の人がいたの。誰か知らない人が来たの。君たちがホテルのガキを持っていたのかね?どうやって手に入れたのかね?作らせたのよ。本物のカギは二人が一緒じゃない時はいつでも郵便ポストの中二入れてあったの。彼とあたしと二人で一個しかなかったんですもの。ある日、それを盗んで駅前の鍵屋でコピーを作らせたんだわ)

 

「持ってるよ」

 

と言った。

 

「ってことはここはあなたのうちでもあるということですよ。作業を明日にしてはいけない理由がないじゃない。それに破片は刺さってるほうが血が流れなくてその分、気持ちが楽なんです。このまま作業を続けてたら、頭のネジが飛んじゃいます。今だって相当フラフラなんです」

 

(そこに描かれている女性は等身大よりもかなり大きめに見えた。目算によれば質量が評価基準となる商品にふさわしい計量単位に換算して、まず確実に体重が90から100キロはあろうかと思われた。確かによく肥えた女性だった)

 

「ダメだよ。それは部屋の片づけは明日でいいとして、破片は抜いて止血しないと」

 

(巨大な白い瀬戸物の皿。大きなとんかつ。脇に盛り上がる千切りキャベツ。この玉子の下の膨らんでいる部分がトマトライスなのだな。緊張してスプーンで玉子をめくる。ケチャップでピンクに彩られたお米、チキンライスのチキン抜き、玉葱多量)

 

「もう遅いんです」

 

「手遅れってこと?それとも時間?」

 

(カップにコンソメスープを注いで席に戻る。スプーンでまず縦にざっくり玉子を斬ってお米を口に運ぶ。玉子はちっともトロリとしていない)

 

「ううん。違うの。あなたはあたしとまたセックスすることもできるし、一緒に暮らすこともできる。少なくともこの部屋ではあなたが欲しいものを手に入れることができるわ」

 

「しかしそこに心というものが存在しないよね?」

 

「心がなくても回転シャフトならあるし、それで十分だと思わない?移動ならベッドで十分よ」

 

右手でクランクを回しながら、左手で散乱したごみを片付けた。片付けたごみ一つにつき彼女の破片を一つ取ることにした。

 

「熱心なのはいいことね。ちょっと待ってね。今ロウソクつけるから。これで少しは掃除しやすいんじゃないかしら?」

 

「ありがとう。だったらついでに君の傷口をロウソクで固めちゃおう。そうすれば治りが早くなるはずだ」

 

掃除と破片抜きをしている僕の耳元でマッチを擦る音が聞こえた。彼女がロウソクに火をつけたらしい。本当に微かな光だったけど、無いよりかはマシだった。入口あたりに部屋の電気をつけるスイッチがあったはずだが、ベッドが引っかかって入り口にはいけそうにない。だからベッドに備え付けのライトと彼女の蝋燭で片づけを続けることにした。

 

バニラの香りを漂わせながら燃えるロウソクの掘脳に照らし出された空間は、惨劇が起こった後の景色そのものだった。誰かがこれを見たら即座に110番通報するだろう。薄明りに目が慣れてきたので、だいぶ掃除が捗った。

 

「まァ今のうちに子供たちにも会っとこう思いましてなあ・・・」

 

「お楽しみですなア。あちらの世界じゃ皆さんお待兼ねでしょうて」

 

「君との出会いに心から感謝している」

 

彼女はシンナーを嗅いではため息をついて、ロウソクの火を見ながらぼーっとしている。

 

「君も結局、ラリぱっぱだな。こんな時にシンナー吸うなんて。引火したらどうするつもりなの?」

 

「君もってどういうことです?」

 

「いや、知り合いに四六時中ラリってる変な女がいるんだけど・・・・・・」

 

「セフレ?」

 

「いや、セフレというよりパフォーマティヴなフレンドというケミストリーかな」

 

「あ!またケミストリーって言った!なんなんですか?それ全く意味が分からない!」

 

彼女は「分からない」という部分に不思議なアクセントをつけた。

 

「なんていうんだろう、その、情念を統合するイデアみたいなものかな」

 

一旦手を止めて、ベッドに横になった。ズタズタな上に血まみれなので寝心地は良くなかったものの、一旦横になってしまうとそのまま何もしたくなくなって、そのまま寝てしまいそうになっていた。

 

「いわゆるあなたのような人が持っている借り物思想についてなんですけどね、ちょっといいことを言ったところで、そんなもの古代人が先に言ったことなんですよ」

 

「イデアの統合とかって言ったことについて言ってるの?君は」

 

「偽造を怖がるなんて、なんという脳軟化症、なんという怠惰、なんという官僚的発想、なんという悪意でしょう!文学は儚ければ儚いほど完璧なんですよ。だから、すでに死んだものを保護するなんてできるわけない!」

 

「そうかもしれないね。ブレヒトも言っているように僕らにとって、芸術作品を一個の全体と見做す習慣ほど断ちがないものはほかにないよね」

 

「そうなのよ。イカの長い中枢軸索を研究対象として、ニューロンがどのように発火、つまり興奮して、情報を伝達しあうのか、解明しようとしたんですよね。1950年代の科学者達が。なかには、なにかがうまくいかなかった場合に、ニューロンがどのように修復、補正するのかを調べようとした科学者もいる」

 

「それ何かで聞いたことある。いや、読んだのかな。で、僕は思ったんだよ。だから精液はイカ臭いって形容されるんだなって。君が血を流し続けても生きていられるのは、ニューロンの修復と補正の機能なんでしょう?」

 

「修復と補正の機能もその一つですね」

 

暗闇の中に言葉を探し、こう言った。

 

「ケミストリーだね」

 

これは特定の誰かに向けられた言葉ではない。ただそこにある無言の、無名の隙間を埋めるために、正しい言葉をひとつでもみつけなくてはならない。

 

「でもあたしたちは現実に関わっているわけではないんです。あなたが射精するとき、それはあたしの体内にではなく、あなた自身の意識の中に射精するのよ。分かる?それは作り上げられた意識なのよ。しかし、それでもやっぱりたちはセックスしたという意識を共有しているけどね」

 

夜の闇は前よりも濃さを増していた。

 

「意識の中に射精、か。自分が射精することは、誰かの中に出すことを意味するのではなくて、それは自分の内側から責任を持って射精していて、否応なしに現実に自分が射精にアリバイなしであることを是認することを意味するからね」

 

午後4時頃、窓際で誰かが潜んでいるのを見た。その窓は、芸術家の道具を売る店の窓で、誰もいなかった。アーティスト用品を売っている店の窓だった。ジェッソでコーティングされた小さなキャンバスが、通り過ぎる時に映り込んでいた。自分の姿が映し出されていた。それにしても、なんというか、危なかった。実は、自分の姿を見たのは、本屋のウィンドウだったかもしれない。書店のウィンドウに映ったのかもしれない。

 

「他人の観点から自分を評価し、他人をとおして、みずからの意識を越えた契機を理解し、考慮することですね。我々は普通の男女の関係とはずいぶん違っているんですね。何がどこかの部分で肉体がくっつきあってるような、そんな関係です。肉体関係は断じてありませんけども。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうような感じでしょうか」

 

彼女をジッと見ていると、無性に血とウィスキーが混ざった味が恋しくなった。しかしウィスキーはもうないので、自分がウィスキーを飲んでいるところを頭の中に想像してみることにした。清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるKazimierz Serockiの前衛イディオム満載のオーケストラ曲、そしてダブルのオン・ザ・ロックだ。カウンターの上にグラスを置いて、しばらく手を付けずにじっとそれを眺める。ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ。そして眺めるのに飽きたら飲むのだ。綺麗な女の子と同じだ。

 

自分がスカイラインの運転席に座り、隣に女の子を乗せて、Silvestrov ValentinのSacred Songsとともに夜中の都市を疾走しているところを想像してみた。目の前に血まみれのウィスキーの瓶の破片が刺さった彼女がいるにも関わらず。ああ、血まみれのアンヌよ。ちなみに彼女の名前は知らない。