第3章:「善意の暴力 ― 正しさが生む冷たさの美学」
1. 「善」の形をした暴力
芸術が倫理に接近するとき、その根底には「善意」がある。暴力的なものを排除し、傷ついた者に寄り添い、社会をより良くする――その志向そのものは否定できない。しかし、善意の中にはしばしば見えない暴力が潜む。なぜなら、善意は「正しいことをする私」という構図を必要とするからだ。「正しいことをする私」と「間違っているあなた」が生まれた瞬間、そこに対立構造が発生する。そしてこの対立は、暴力的に均衡を保つ。
音楽における善意とは、「癒す音」「希望の音」「平和の音」といった概念の形で現れる。それらの音は、いずれも“誰にも不快を与えない”ことを目的としている。だが、不快を排除するという行為こそ、生成を排除する暴力である。なぜなら、生成は常に不快から始まるからだ。未知なるものが現れる瞬間、人は戸惑い、抵抗する。その抵抗の中で、新たな形が生まれる。だが、善意の音楽は不快を拒絶し、そのために生成の契機を失う。結果として、善意は“ぬるま湯の秩序”を維持する装置になる。
2. 「わかりやすさ」という暴力
現代において、最も巧妙な暴力は「わかりやすさ」という形で行使される。人々は複雑なもの、理解に時間のかかるものを避け、「明確な意味」「シンプルな構造」を求める。だが、その“やさしさ”が芸術の破壊をもたらす。わかりやすい音楽は、感情を即座に喚起する。悲しいときには短調、嬉しいときには長調、衝撃にはノイズを、平和には静けさを――。それはあまりにも道徳的で、わかりやすいコード体系だ。
だが、現実の生成はそんなに単純ではない。悲しみの中にも快楽があり、静寂の中にも暴力がある。この複雑性こそが生命の真実であり、芸術の呼吸である。わかりやすさを志向することは、人間の複雑な感情を単純化し、生成を一義的な“説明可能な構造”に押し込める暴力だ。それは、「理解できるものしか存在してはならない」という認知的全体主義である。
わかりやすい音は、聴衆の不安を和らげる。だが、その代償として、未知と出会う機会を奪う。それは、社会的には快適だが、精神的には極めて貧しい世界をつくる。
3. 善意の制度化
“善意の音楽”が社会的評価を得るとき、それは制度として固定化される。コンテスト、メディア、教育、アート支援プログラム――すべてが「社会的に意義のある音楽」を奨励し始める。この構造は、善意を評価基準にするという意味で、制度的な道徳主義である。善意が制度に取り込まれた瞬間、芸術は倫理の官僚制の一部となる。
制度の目的は“正しさの管理”であり、生成の許容ではない。そのため、制度が音楽に求めるのは、新しさではなく模範性である。模範的な芸術――それは最も非芸術的な状態である。芸術とは制度から逸脱する力そのものだ。だが、制度に認可される「良い音楽」は、制度の内部で安心して流通する。つまり、無害化された創造である。それは爆発ではなく、パフォーマンスである。
4. 感動の暴力
善意の音楽が社会的に受け入れられる理由のひとつに、「感動」がある。人は感動を“真実の証拠”と誤認する。涙が流れたら本物だと信じる。だが、感動ほど簡単に演出できるものはない。感動は、構造的に“予測可能な刺激”で作ることができる。テンポの変化、音量の上昇、旋律の上行、コードの解決、静寂の挿入――これらはすべて神経反応を操作する技術だ。感動はもはや現象ではなく、アルゴリズムである。
こうして「感動できる音楽」は、聴衆の身体反応を設計する産業製品になる。聴衆は、自らの神経が反応することに酔い、“感動”を“真実”と取り違える。善意の芸術は、この構造を利用する。「社会的に正しいテーマ」と「神経的な快感」を結びつけることで、倫理的満足と生理的快楽を同時に提供する。だがその結果、芸術はますます刺激依存になり、“深い生成”が浅い反応に置き換わる。
5. 「癒し」と「忘却」
善意の音楽がもう一つの顔を持つとすれば、それは「癒し」である。だが、癒しとは本来、痛みを通過して起こる現象であり、痛みを回避して得られる快適さは、麻酔にすぎない。癒しを目的とした音楽は、痛みを忘れさせる音楽である。しかし忘却とは、生成の記憶を消す行為でもある。そこには再生はなく、単なる静止がある。
癒しの音楽が社会で好まれるのは、人々がもはや生成の痛みに耐えられないからだ。人は変化ではなく、安定という死を選ぶ。それを“優しさ”と呼ぶのは、欺瞞以外の何ものでもない。
6. 倫理的共感の麻痺
善意の音楽が繰り返される社会では、やがて共感のインフレが起こる。人々はあらゆる“感動”に晒され続け、悲しみや苦しみの映像・音声が飽和する。結果として、共感は機械的な反射になる。“かわいそうな人のための音楽”“戦争反対のための演奏”――それらは聴衆の感情を刺激し、涙を誘う。だが、涙が流れたからといって理解が深まったわけではない。むしろ、感情の即時的発散が、本当の理解を阻害する。
ここにあるのは「感情の短絡回路」だ。聴衆は自分の涙によって“良い人である自分”を確認し、その瞬間に罪悪感から解放される。その解放感こそ、善意の音楽が提供する最大の商品である。倫理的共感の麻痺とは、悲しみや痛みのシミュレーションを繰り返すうちに、実際の他者への感受が鈍化する現象である。言い換えれば、倫理の再現による倫理の死だ。
7. 「感情の自動化」とAI的模倣
この段階に至ると、音楽の倫理的構造はAI的模倣と区別がつかなくなる。なぜなら、“正しい音”を出すアルゴリズムは、統計的に最適化可能だからである。大衆が安心し、感動し、共感するパターン――それはすでに数値化できる美学である。AIが感情曲線を解析し、「ここで泣けるメロディ」を生成する。その音楽は完璧に“人間的”に聞こえる。
しかし、この“人間的”とは、もはや生命の比喩ではなく、反応の模倣でしかない。善意の音楽が目指す「正しい感動」は、AI的生成の方向と一致する。ここにおいて、倫理と人工知能は奇妙に手を結ぶ。どちらも「エラーのない世界」を志向する。しかし、エラーのない世界は、生成が起こらない世界でもある。ノイズのない音楽は、生きていない。
8. 「沈黙への恐怖」
善意の芸術家たちは、沈黙を恐れる。沈黙は「何も伝えない」と感じるからだ。だが、沈黙こそが生成の前提条件である。沈黙は意味の欠如ではなく、意味の準備状態である。音は沈黙から生まれ、沈黙へ帰る。沈黙のない音は、言葉のない呼吸のように窒息する。しかし、善意の音楽は沈黙を恐れ、絶えず何かを伝えようとする。「伝えること」自体が目的化し、その過剰な自己表現が、沈黙の領域を破壊する。
沈黙を奪われた音楽は、永遠に喋り続ける。「正しいことを言い続ける」という強迫によって、その声はやがてノイズではなく雑音となる。
9. 倫理の演出と観客の快楽
善意の音楽が最も危険になるのは、それが「倫理的エンタメ」として完成したときである。ステージ上の演奏者は真摯に語り、スクリーンには戦火や苦痛の映像が流れ、観客は涙を流す。しかしその涙は、消費された他者の苦しみの上にある。観客は苦しみを“見た気になる”。それによって安心し、明日を生きる。だが、本当の苦しみはそこにはない。苦しみは舞台装置の裏側に隠され、音は倫理の演出の一部になる。
これをハンナ・アーレントの言葉を借りて言えば、“悪の凡庸さ”ならぬ“善の凡庸さ”である。善意が形式化し、習慣化するとき、それはもはや倫理ではなく、儀式となる。儀式は安全だ。危険を含まない。だが、危険を失った芸術に誠実はない。
10. 冷たい善の臨界点
善意がここまで制度化し、感情が自動化されると、社会全体が「冷たい善」の状態になる。それは、誰も悪意を持たず、誰も痛みを負わず、しかし誰も熱を発しない世界である。冷たい善とは、“正しいが、何も変えない正しさ”である。そこではすべてが評価され、すべてが承認され、誰も否定されない。
だが、否定されない世界に生成はない。創造は、抵抗から生まれる。誤解、批判、拒絶――それらはすべて生成の原動力である。冷たい善の社会では、音楽はもはや抵抗の場ではなく、倫理の延命装置となる。その中で音楽家は“道徳的な存在”に昇華され、生きた人間ではなくなる。そして、この臨界点を越えたとき、音楽は完全に凍る。音はまだ鳴っているが、そこに生命はない。
結語
善意は悪より危険である。なぜなら、悪は自覚的だが、善は無自覚だからだ。悪は破壊を行うが、善は無痛で生成を停止させる。悪は暴力を見せるが、善は暴力を隠す。その隠蔽こそが、最大の暴力である。したがって、真の芸術家は、善意よりも誠実を選ばねばならない。誠実とは、理解されないことの中にとどまる勇気である。そこには賞賛も共感もない。あるのは沈黙と孤独と、微細な熱だけだ。だがその熱こそ、世界を再び動かす唯一の残響である。