Ⅰ|黒人搾取は一方向ではない
――経済と政治が螺旋状に黒人を封じ込めた構造
アメリカにおける黒人搾取は、文化領域での収奪と政治領域での封印が絡み合う、安定した構造として存在してきた。偶発的な悲劇ではない。むしろ再生産に適した形式だったから、同じことが何度も起きた。白人音楽産業は黒人の音を商品として吸い上げ、白人政治機構は黒人の怒りを治安という名で圧殺する。創造性は貨幣へ変換され、政治性は危険物として廃棄される。この二つの運動が螺旋を描くように噛み合い、黒人が上昇する経路そのものを折ってきた。出口は用意されているように見えるが、いつも出口だけが塞がれている。アメリカ黒人の歴史は、この密閉された螺旋の内部で進行してきた。
Ⅱ|音楽産業という収奪機構
――黒人の創造性は白人の貨幣回路に吸収された
ブルース、ジャズ、R&B、ソウル、ファンク、ヒップホップ。黒人音楽の先端は、生まれた瞬間から白い資本に囲い込まれる。新しい音が出現するたび、囲いは更新される。新しい技術が発明されるたび、檻の材質だけが変わる。契約は搾取に変形し、印税は消失し、権利は移転され、方向性は白人プロデューサーによって規定される。黒人性は商品化され、怒りと政治性は削除される。
音を作るのは黒人で、利益を回収するのは白人。この単純な配置が崩れたことは一度もない。黒人が音を生み、白人がその上に家を建てるという比喩は、詩的だから残ったのではない。精度が高すぎたから残った。建材として使われる音と、すり替えられた土地の権利。その非対称が、産業の基礎を成している。
Ⅲ|政治領域はさらに残酷だった
――黒人の怒りだけを選択的に潰す国家装置
音楽産業が創造性を吸い上げる一方で、国家は怒りを潰す。しかもその運用は噂ではなく、文書として残っている。COINTELPRO。FBIの方針に並ぶのは、礼儀正しい言葉で塗装された命令群だ。黒人指導者の信用を破壊し、政治運動を分断し、コミュニティの結束を壊し、内部対立を煽り、武装した黒人を優先的に排除する。これは陰謀論ではない。機密解除された国家文書そのものだ。
つまりアメリカ国家は、黒人に怒るなと命じ、怒って立ち上がれば殺すという運用を、半世紀以上にわたって公式に回してきた。ルールは存在し、ルールは紙に書かれていた。紙に書かれた暴力は、最も効率が良い。
Ⅳ|文化的搾取と政治的抑圧の合成効果
――黒人の怒りの進路を奪う装置
黒人の怒りには層がある。日常の差別から生じる怒り、歴史構造への怒り、そして政治的反乱へ向かう怒り。アメリカ社会は最初の二層を放置する。正確には、商品化できるから泳がせる。だが三層目に触れた瞬間、回路は切断される。音楽として昇華された怒りは棚に並ぶが、政治へ向かう怒りは国家装置によって遮断される。FBIが現れ、殺される。そこで接続は終わる。
その結果、怒りは政治へ進めず、音楽へと逃がされるよう設計される。逃がすという語は穏やかすぎる。実際には、逃げ道がそこにしか残されていない。ジェームズ・ブラウンの意味を削ぎ落とした歌詞は、この構造の象徴だ。音は暴動しているが、言葉は沈黙している。怒りは消火され、グルーヴとして封じ込められ、社会は爆発寸前で停止し続ける。火は消えない。ただ形を変える。
Ⅴ|現代においても構造は解体されていない
――差別は看板を変えただけで持続している
アメリカの差別は終わった、という言説は表層的だ。終わったのは看板で、仕組みは残ったままだ。収入の差、住居政策による分断、刑務所人口の偏り、職業配置の歪み、医療へのアクセス、警察暴力。これらは個別の問題ではなく、構造的差別が連続している証拠だ。
黒人は今も、怒りを表明してはならない配置に閉じ込められている。怒りを表明すれば、個人の資質へ還元されるか、治安の問題へすり替えられる。出口の標識は増えたが、扉は存在しない。
Ⅵ|黒人の怒りを歴史の正統性として扱う必要
黒人の怒りは感情ではない。歴史の要請だ。搾取され、抑圧され、暗殺され、黙らされ、商品化され、利益を奪われてきた。この全方向からの包囲の中で、怒りが生じないほうが異常だ。怒りは誤解された激情ではなく、構造に対する帰納的反応である。だから怒りは正しく、合理的で、歴史的に整合している。整合しているものは消えない。消えないものだけが、音という形で残留する。
Ⅶ|
――アメリカは黒人の音だけを欲しがり、黒人の怒りだけを殺してきた
アメリカという国家は、黒人の創造性に依存し、黒人の政治性を恐れ、黒人の怒りだけを無効化してきた。その構造は醜いが、醜さは機能してきた証拠でもある。機能してきたから、続いてきた。音楽が黒人の命を奪ったわけではない。命を奪ってきたのは、常に政治と資本だった。音楽は救いとして作用した。抑圧してきたのは国家だった。そしてこの構造は今も稼働している。稼働している以上、音もまた終わらない。
Ⅰ|ロックとは、黒人の言語が白人の母語へと接収された史上最大級の文化的収奪である
ロックは白人が生み出した音楽ではない。発生点は一貫して黒人の声にある。ブルース、R&B、ジャンプブルース、ゴスペル――いずれも生活の圧力によって歪められた呼吸であり、黒人の身体が耐えきれずに漏らした声の副産物だった。しかし1950年代以降、その声は白人音楽産業の手によって分解され、再配列され、白人市場が必要とする「反逆の言語」として再設計された。これは文化交流ではない。黒人の痛みを、白人が自らの自由の語彙として転用した事件である。
呻きとして発せられたブルースは、白人の喉を通過した瞬間に叫びへと変換された。痛みそのものは翻訳できないが、叫びは翻訳できる。市場が選んだのは後者だった。この選択がなされた時点で、ロックの行き先は確定した。ロックは黒人にとって、二度と帰れない故郷になった。故郷が盗まれるとき、盗んだ側は必ず「影響を受けた」という語を使う。だが被害者は説明を必要としない。匂いで分かるからだ。
Ⅱ|ロックが「白人の反逆」の象徴として制度化され、黒人が排除される構造は偶然ではなかった
ロックは白人社会にとって、白人が白人に対して反逆を演じるための安全装置として機能した。ここで決定的なのは安全性である。黒人が怒りを表明すれば、それは治安問題へと即座に変換される。一方、白人が怒りを演じれば、それは文化として保護され、称揚される。この非対称がすべてを規定した。
白人青年の焦燥、中産階級の疑似反体制、左翼的ロマン、そして巨大な文化消費装置。これらが絡み合い、ロックの骨格を形成した。この構造の内部には、黒人が反抗する権利も、黒人が叫ぶための空間も用意されていない。黒人がロックを演奏すれば、それは白人の物語の脇役として消費される。演奏しなければ、なぜ参加しないのかという無邪気な問いが投げ返される。いずれの場合も、傷つくのは黒人の側だ。ロックとは、善意の表情を貼り付けたまま閉じられた檻だった。
Ⅲ|ブルースの巨人たちがジミ・ヘンドリックスを拒絶したのは、個人ではなく構造に対する怒りだった
黒人音楽の長老たちは、ジミ・ヘンドリックスの才能を否定したのではない。彼らが拒絶したのは、黒人の痛みが白人の反逆の象徴へと変質していく過程そのものだった。ジミは、黒人性と白人市場の狭間に固定された象徴だった。彼の身体性や霊性、そこに蓄積された痛みは、白人の祝祭を彩る装飾へと再利用されていく。その消費のされ方の匂いを、彼らは即座に嗅ぎ取った。
怒りは正しかった。誤っているのは個人ではない。構造である。天才はしばしば、構造が自らを正当化するための証拠として使われる。その使われ方に対する嫌悪こそが、彼らの拒絶の正体だった。
Ⅳ|黒人コミュニティがロック/メタルを本能的に避けるのは、それが「汚染された音の領域」だからである
黒人コミュニティがロックを遠ざけたのは嗜好の問題ではない。それは生存戦略であり、身体的記憶の発動である。避けるというより、身体が退く。触れた瞬間に呪いが移行する領域として記憶されているからだ。
ロックはいつしか白人性の象徴へと変質した。批評、流通、評価、英雄叙事のすべてが白人の物語を補強する方向へ収束し、黒人がそこに立つことは「白人文化に従属した存在」という像を強化する結果しか生まなくなった。尊厳が借り物になるということは、いつでも返却を要求されるということだ。黒人コミュニティにとって、それは精神的自殺に等しい。
さらに深層では、問題は穢れの感覚にまで及ぶ。黒人の血と痛みによって生成された言語を、白人が所有者の顔で運用する文化は、身体に拒絶反応を引き起こす。これは比喩ではない。何が共同体を守り、何が破壊するかを判断する神経の問題だ。汚れているから嫌悪するのではない。汚染された領域に踏み込むことで、防衛線が崩壊することを知っているから距離を取る。
メタルに至っては、その構造自体が白人神話の饗宴であり、黒人文化のコードと交差しない。交差点が存在しない場所には入口もない。そこに立てば、侵入者として処理されるだけだ。だから黒人メタルが生まれないのではない。成立させてもらえないのである。舞台が崩壊することを恐れるのは、常にその舞台を所有する側だ。
Ⅴ|ロックとは、黒人の怒りを白人が安全に模倣するために設えられた劇場である
ロックの構造は徹底的に冷酷だ。黒人が本気で怒れば、国家装置が介入する。立ち上がれば暗殺され、叫べば治安問題として処理される。一方で、白人が怒りを演じるとき、それは自由であり、自己表現であり、芸術であり、カリスマとして称賛される。
ここにロックの本質がある。黒人の怒りは危険物として封印され、白人の怒りは商品として流通する。この逆転が成立している限り、黒人がロックを避ける理由はあまりに明白だ。その回避そのものが、歴史に対する防御反応となる。
Ⅵ|黒人がロックをやらないのは選択ではない。それは記憶である
黒人がロックを忌避するのは、嗜好でも文化的趣味でもない。そこには、語る以前に奪われ、名付ける以前に書き換えられ、創造するたびに別の名義へ移されてきた記憶がある。怒りは無効化され、権利は契約の裏で剥奪され、歴史は白人の自由の装飾へと再生産された。その積層した経験が、ロックという領域を死者の墓として知覚させる。
黒人の身体は、この構造を理論ではなく感覚で理解している。だからロックは、穢れであり、奪われた墓であり、踏み入れてはならない死者の領域として扱われる。この理解を欠いたまま語られるロック史は、構造的犯罪の現場を美談へと塗り替えた虚構でしかない。