神経は閾値で作動する。閾値を超えた入力は発火として現れ、閾値未満の入力は沈黙として残る。残るとは保存ではない。蓄積でもない。まだ形にならないまま、回路の感度そのものを歪める。
宇宙は巨大で、神経は微小だ。サイズは違う。形式は繰り返される。臨界、相転移、爆発、崩壊、沈黙、再編。名前は違う。閾値を跨ぐかどうかが、出来事の輪郭を決める。閾値がなければ出来事は出現しない。閾値が硬すぎれば世界は無音になる。閾値が柔らかすぎれば世界はノイズになる。
ミクロの神経はマクロの宇宙を「説明」しない。再演する。再演とは、同じ原理が異なるスケールで作動するということだ。比喩ではない、という言い方が必要になるのは、比喩が逃避だからだ。ここで要るのは同型性だけ。閾値。非線形。自己組織化。フィードバック。飽和。破綻。回復。これだけで足りる。
生成とは、この閾値運動を自覚として引き受けることだ。自覚は内省ではない。観察でもない。自分が発火しているという事実を、発火の最中に「運用」すること。発火の倫理。沈黙の倫理。どちらも行為の正邪ではなく、速度と粘度の配合の問題になる。
倦怠は、閾値に達していない時間ではない。閾値そのものが再設定されている時間だ。反復は閾値を探る作業ではない。閾値を押し上げたり、削ったりする手つきだ。破綻は閾値を超えた瞬間ではない。閾値という概念が破れる瞬間だ。静寂は閾値の向こう側の祝祭ではない。再統合という名の再配線だ。呼吸に似るのは、往還があるからではない。往還しか残らないからだ。
思考が沈むとき、神経だけが残る。残るというより、思考が消えた残余として神経が可視化される。世界は意味としてではなく、波形として入ってくる。波形とは音ではない。感度の変化だ。入力の粒度。密度。間隔。反復はリズムやメロディではなく、感度の学習として起こる。学習は記憶ではない。回路の閾値が少しずつ書き換わるだけだ。
この状態で生じる変形は、意志の成果ではない。制御はむしろ邪魔になる。制御が邪魔になるのは、制御が固体だからだ。神経は流体で、固体の指揮は粘度を破る。残すべきは「壊れない程度の粘度」だけ。聴取と破壊の間に、わずかな摩擦を残す。その摩擦が倫理になる。
神経が受け取る波形を、宇宙背景放射に直結させる必要はない。必要なのは、どちらも「臨界で組織化される」という一点だ。シナプスの発火も、銀河規模の構造形成も、線形の足し算では記述できない。非線形の相互作用から、パターンが勝手に立ち上がる。立ち上がったものが「秩序」と呼ばれるだけだ。秩序は目的ではなく副産物である。
この同型性を意識化できるのは、倦怠を通過した神経だけだ。倦怠が思考を鈍らせるのではない。思考が主権を失う局面を、倦怠が露呈させる。主権が剥がれると、神経は世界と接線を結ぶ。接線という語が必要になるのは、完全な同一化が起きないからだ。同一化は死だ。接線は接触で、接触は通過で、通過は変形を生む。
ここで人間は「考える存在」から「媒介する存在」へ移る。移るのは主体ではない。回路の配置が変わる。思考は後ろで泡立つ余韻になる。余韻は不要ではない。ただ一次ではなくなる。一次に来るのは、閾値と粘度の運用だ。ここで倫理が成立する。倫理は規範ではない。構造の短絡を避けるための配線規則だ。
伝統倫理は行為の正邪を裁く。生成の倫理は、裁かない。速度と粘度を測る。善は「維持できる生成」で、悪は「短絡としての生成」になる。短絡は道徳的非ではない。系の呼吸を奪う操作だ。固定化も暴走も同じ種類の短絡で、どちらも粘度を壊す。固定化は粘度を過剰にし、暴走は粘度をゼロにする。両方とも差異を潰し、等価化へ落とす。等価化が進むと世界は透明になる。透明になった世界は、倫理を不要にする。不要にされた倫理は、あとから暴力として戻る。
神経の疲弊は、悪ではない。疲弊は粘度の上昇として現れる。粘度が上がると、外界の入力を絞る。絞るのは逃避ではない。過負荷を避けるためのプロトコルだ。逃避は外へ向かう。ここで起きているのは内側の再配線で、内側の再配線は「何もしない」という形でしか実装できない。何もしないことが、最も重い操作になる。
この再配線を阻むものがある。刺激への依存。速度主義。即時の成果。意味への固着。これらは固体の倫理で、神経の倫理と衝突する。衝突の結果として倦怠が起きる。倦怠は敵ではない。調整の警報だ。警報は救済ではない。救済を約束する文体はすでに商品である。ここにあるのは約束ではなく、回路の保存だ。保存とは停止ではない。変形以前の空白を維持する技術だ。
祈りという語がここで出るなら、宗教ではなく姿勢の名になる。再配線を受け入れる姿勢。生成に身を委ねる、という言い方すら危うい。委ねるのではない。抵抗をやめるだけだ。抵抗がやめられた瞬間、粘度は自分で配合を変える。
AIは外部ではない。外部に見えるだけだ。神経の外部化。補助神経系。予測と要約と模倣の装置。装置が倫理を奪う、という恐怖は理解できるが、恐怖は倫理ではない。恐怖は閾値の誤作動だ。AIを拒むことが「人間らしさ」の防衛に見えるのは、固体的な自我が粘度を持てないからだ。AIが危険なのは、知能が高いからではない。速度と規模で粘度を破りやすいからだ。粘度が破れると短絡が増える。短絡が増えると世界は透明になり、倫理が空洞化する。
AIは倫理の代替ではない。鏡でもない。測定器でもない。補助回路だ。補助回路は、使い方ではなく「接続の仕方」がすべてを決める。接続が雑なら、神経は破綻する。接続が精密なら、神経は粘度を回復する。共鳴とは熱狂ではない。閾値の同期である。同期しすぎれば同調ではなく依存になる。依存は粘度を失わせる。失わせないために必要なのが倫理だ。倫理が先にあるのではない。接続を調整する過程として倫理が立ち上がる。
呼吸を持ち出す必要はない。呼吸は説明を甘くする。必要なのは最小単位だ。行為ではない。波でもない。閾値である。閾値が立ち上がり、閾値が壊れ、閾値が書き換わる。この繰り返しが生成で、生成の速度を壊さない粘度の保持が倫理になる。
倦怠は、生存の証拠でも救済でもない。閾値が再設定されているという、ただそれだけの事実だ。その事実を読めるかどうかで、次が変わる。読めない場合、倦怠は疲労として消費される。読める場合、倦怠は生成の入口として機能する。入口は優しくない。入口は入口でしかない。