角の三等分屋について。

恐らく一ヶ月近くぶりぐらいに家で書いてるわ。これを。っつーかずっと泊まりだったからね。で、感想としては日中眠いっていう。ようは地べたにマット敷いて寝てるわけだから快眠ではないんだよね。ウィザードリーで言うところの簡易寝台みたいな。あれってでも歳とらないんだよね。確か。3だけはなぜか最後までやったんだよねぇ。勝間和代とかウィザードリー好きなんだよね。日和見ゲーマーかと思ったら筋金入りっていう。いや、キャラって多いじゃん?私こんな感じですけど実はこうなんです・・・みたいなのを作って意外性を作るっつーかキャラを作るっつーかさ、でもその作為性がガチな人達にバレるんだよね。しょこたん日和見オタクなのと同じ感じで。


まぁいいや。んでまぁあれなんだよね、背中が重いっつーかさ、ニュージャージーに居た頃にエアベッドで毎日寝てた頃の日中のダルさってのだよね。睡眠時間的には別にそんなに足りないわけじゃないけど質が悪いっていう。数日とかならいいけどダメだよね。長期は。別に重労働してるわけじゃないのに疲れがたまるような感じがあるっていうか身体的にダルいのね。まぁ神経も使うからそりゃーリラックスではないんだよね。そう思うとやっぱ自分の部屋って凄いよな。リラックスできるからまぁ弛むからダメってのもあるんだけどね。店は適度な緊張感があるのかな。


で、まぁ結構な本を読んでるんだけどさ、「何読んだんだけど」ってすぐ書けないとかってのがあってあんま更新してないじゃん?ウォール伝。まぁ別に本当に書きたい事があれば書くからさ、別に読書感想文みたいなのなんて書かなくてもいいからどうでもいいっつっちゃーどうでもいいんだけどさ、矢野健太郎の「角の三等分」っていう本を読んだっつーか読んでるんだけどさ、今はね、最近はまぁ色んな意味でまぁやってないっつーのもあって幾何をやる必要性ってのを感じてるのとさ、幾何的な理解をしたほうが理解度が高まったりする理論とかあるでしょ?円で考えれば分かりやすいとかさ、どっかとどっかの比で考えると・・・みたいなね、そういう幾何的センスって養っておくのは無駄じゃないんだよねっつーかむしろ必要でさ、あ、んであとね、数学系のことは素人があんまり色々と書くとアレだから書かないようにしてたんだけどもう解禁でいいかなと思って。


実際、最近は数学に接してる時間が多いし、だからこそ書く事が無くなるっつーかさ、志向性が数学に行ってるからさ、だからまぁ別に素人考えでもなんでも青臭かろうが素直に感動したこととか気がついたことは書けばいいんだよね。書くということによって思考がまとまったりするし納得したりするじゃん?本当は練習問題とかやるのがいいんだろうけどやっぱ俺って概念なんだよね。計算がどうのって本当に興味が無くてさ、ようは大局で見るっつーかようはでも大枠で見るしかないよね。むしろ近視眼的に近くの計算ばかり追っていると森が見えないみたいなさ、そういうことってあると思うんだよね。だから一個一個理解していくというのも重要だけど、違和感を感じつつも読み進めるとかさ、完全に分かったわけじゃないけど考えをまとめてみるとかさ、そういうのでもいいんだよねっつーかまぁ今まで俺はずーっとそれをやってきたわけで別に数学でそれをやるだけの話だから別に何にも新しいことなんてないんだけどね。


で、角の三等分屋っているんだよね。「角の三等分ができました!」って論文なりなんなりを送ってくる人ってのが必ずいるっつーのはもう語りぐさになってるっていうか数学系の本読んでれば大体そういう記述を見ると思うけどさ、なかなか考えられないのがさ、いやね、さっき書いた計算がどうでもよくて概念だって俺が言うのと勝手にシンクロしたから書くんだけどさ、三等分屋ってまさしく近視眼的な計算屋なんだよね。色々と手練手管を尽くして証明しようとするんだけど複雑になり過ぎてプロでもどこが間違ってるか分からないとかさ、いやってことはそれだけの知識はあるってことだよね。でもなんで三等分が出来ると思っちゃうのか?ってこれは本当に数学的な理解が無い証拠なんだよね。計算だけやっててもしょうがないという良い証拠っつーかさ、本当に意味ないんだよね。


っつーのはさ、定規とコンパスだけっつー条件付きなんだけどさ、すんげー簡単に言うとさ、体で考えるわけよね。角に対して定規とコンパスの操作を有限回することで得られる何らかの解なり数値ってのをさ、一個の集合として考えるわけだ。まぁそりゃそうだよね。なんでもかんでもできるわけじゃないからそれはクローズドなシステムになるわけだ。で、三等分するからにはそれは三次方程式を解かなきゃいけないんだけどようはそこに解が無いってことなんだよね。答えは空集合ってことでいいのかな?いいんでしょう。多分。それが代数的に証明されるというのはようは五次以上の一般代数方程式が代数的には解けないっていう定理と同じでそれは定理なんだよね。それが数学的な「不可能性」なんだよね。


それは人間が死なないということぐらい不可能なことっていうかさ、不可能を可能にするって夢があるじゃん?それで言うと俺が数学者になるみたいなことなんだけどさ、でもこれって完全に不可能って決まったわけじゃないじゃん?不可能性はかなりあるわけだけどもやりようによってはなれるのかもしれない。リハビリしても無理ですと医者に言われてもリハビリして体が動かせるようになったとかさ、そういう不可能ではないんだよね。医者なり誰々が何々になれないとかっていうのはあくまで蓋然性の話っていうかほぼ無理でしょうねっていう匙を投げる感じっつーのかな?でもそれはその医者なりね、あとは「お前にはそれはできない」って思う人とか言う人に依存してるわけじゃん?投げられるのはこっちで可能性自体が匙を投げているわけじゃないわけだ。だから1パーセントぐらいの確率でもそれは完全に不可能とは言えないわけだ。ほぼ不可能だけどね。


でも数学的な不可能性というのは完全に不可能なことを指すわけでさ、それは素数をなんかで割ろうとするとかさ、円周率を有理数で表そうとするとかさ、そもそも素数の定義って1とその数以外に約数が存在しない数ってことでしょ?で、約数が存在しちゃったらそれってもう素数じゃないじゃん?もしくは素数全部が実はなんらかの整数で割り切れるとかさ、でもそれって無理でしょ。数の原子って言われるものをさらに分離しようとする感じっつーかさ、円周率もまぁ近似は色々あるよね。それだけで一個のトピックになるぐらい円周率の近似ってのは歴史が長いし古今東西色々あるんだけど、円周率そのものを完全に有理数で一致させるなんてことは不可能でしょ?自然対数の底でもいいんだけどさ、超越数というのは代数的な数ではないということなわけだからそれが代数的であるということは矛盾なんだよね。それはロジカルに矛盾するだけで実際はやってみないと分からないっつってもリンデマンだかがパイの超越数の証明とかしてるわけだしもう無理ってことなんだよね。


水を振り回し続ければコーラになるのか?ってまずどう考えてもありえないからね。いや、でもそういう卑近な物理現象と数学の不可能性を一致させるのはダメだな。そういう物理現象なんか比にならないぐらい不可能なのよ。まだコーラになる可能性のほうが高いぐらいでってまぁそりゃー分からんけどすんげー低い確率でワープしたりする場合もあるらしいからね。ほぼ無いんだけど量子力学的に計算するとすんげー低い数値でそれがあるってことがあったりするみたいだからそのあるってのはまず無い「ある」なんだけどね、でもそれと不可能ってのは全く違うんだよね。


全く無いってのと「ちょっとある。でもほとんど無い」の差って感覚的に言えば両者共に同じようなもんである意味での近似値みたいなさ、近い感じがするじゃない?でもあるのとないのの差って関係無いんだよね。ようは近さがないんだよね。全く別ものというかなんというかさ、いや、それは極限とかじゃなくてね、いや、極限とかで考えちゃえば近さなんてあるじゃん?でもそういう連続的な繋がりとか空間をシェアしてる感じすらもないのよ。1から10までの数の間だったらまぁ全部は違うけど同じ空間に数が存在していて遠い近いだとかっていう比較だとかなんだとかができるじゃない?計算もできるしさ、まぁ色々できるよね。でも空集合に対しては何もできないのよ。だって無いわけだから。そのぐらい角の三等分というのは無茶なことというか不可能性が明らかなことなんだよね。いや、我ながらさっきの超越数の話は良かったんじゃないかな?って思うよね。


だってようは三等分できますっていうことは代数的に解けますって言ってるわけだからさ、解が無いのにも関わらず解を出せますっつーのを相当狂った細かいやり方で出すっていうさ、で、そこがようはあれなのよ、バカな計算屋なんだよね。やってみなきゃ分からん無いっつって色々なオペレーションを試してみるわけだ。その結果大抵証明がごちゃごちゃになるわけだけどさ、それってようは色々と頑張って円周率そのものを有理数で表そうとするようなもんなのよ。でもそれは無理じゃん?いや、さっきも書いたように近似は出るよ。実際あるし。でも近似とそれそのものは全然違うでしょ?数学的に「それです」って言うためには円周率そのものとその有理数が一致してなきゃいけない。でもそんなことはありえないわけだ。あ、んでこの三等分っつーのは「定規とコンパスだけ」ね。角の三等分自体が無理なのではなくて、無理ということで有名な作図不可能なものの一つとしての角の三等分ね。


ゴリ押しで計算しようとする下品さっつーのかな?そういうのに反吐が出ますねってことなのね。あとそんだけ複雑な似非証明を作ってくるのにも関わらず数学の根幹の部分をさっぱり理解してないっていうさ、そこがなんつーか俺が凄く嫌だなと思う計算屋なのね。数学を計算だと思ってる人達だよね。そうじゃないとまず三等分しようと思わないはずだから。繰り返しになるけどさ、その「解が無い」ということのね、まぁようは「解が空集合」ということとかさ、数学的に不可能という意味が表す不可能というのは恐らく比べるものが逆に見つからないぐらい不可能なことなんだよね。


人間が死なないなんてのも将来的には可能になるかもしれないしさ、死なないなんてことはありえない!って今は言えるだけで今後は分からないじゃん?そういう意味で今の時点で不可能って言い切れないっていうかさ、まぁ「今では」という条件付きなら不可能になるかもしれないけど、でも実は可能な方法があったりさ、それを実践してる人とかがいるかも分からないってオカルトみたいな話だけどさ、んでもそんぐらいもしものことがあったらもうそれは数学の不可能性とは一致しないんだよねっつーかようは数学的な不可能さってのは地球が滅びようとも何億年経とうともそれは不可能なままなんだよね。そういう凄まじく厳密な事実としての不可能性ね。それに不可能を可能にするとかいって挑むのは本当にバカとしかいいようがないっていうかそれだけ数学のエッセンスを理解してないってことなんだよね。


なんか俺のイメージだと計算屋ってそういう抽象度が低い連中が多い感じがしてなんかすげー下品な感じがするんだよね。いや、仕事として計算をやる計算屋ならいいんだけどさ、いや、ツールとして数学を使ってる人達はいいんだけど、俺がムカつくのは数学者のつもりでいる計算屋ね。そのタチの悪さといったらもう・・・ってところなんですよね。そもそも数学的不可能が可能になってしまったら数学っつー体系がまず崩れるよね。ゲーデル不完全性定理は公理系が無矛盾であればその無矛盾性を証明できないってことでさ、でもそれは無矛盾性が証明できないだけで数学という体系自体にダメージはないんだよね。それが数学的に証明が出来なくても人間は数学を無矛盾な体系だと知覚することができるじゃない?


それがまぁ宗教だっていう人もいるけどさ、これって信じる信じないの問題じゃないからね。beliefとかそういう世界の話ではないじゃん?いや、逆に不完全性定理で「あーそうなんだ・・・」って思うやつとかいたらそれこそそいつも数学が理解できてないってことだよね。俺に言わせれば全く関係無いんだよね。無矛盾性が証明できないということと証明できない無矛盾性があるということは関係がありそうで全く関係無いんだよね。両方が全く個別の独立した事実なんであって相関関係があるわけじゃないのよ。まぁ俗流ゲーデル理解かもしれないけどね、そこの両者の関係性を取り持つことができないというのが不完全性定理なんだと思うんだよね。いや、どの道まぁ凄い定理なんだけどね。there is no proof of pなんて書くとシンプルだけど深遠な定理だよね。だからこそまぁ哲学的な濫用がされまくったわけだ。


まぁホントさっきも書いたように理性と数学って関係無いじゃん?数学という体系で証明されたことが理性にも言えるってまぁ比喩的には言えることもあるかもしれないけど両者は関係無いからね。関係あるとすればそれは同じ証明の手続きを持ったそれこそ写像じゃないとダメだよね。全く同じ構造のものであるっていうさ、それが言えれば同一だけどあくまで比喩じゃん?そもそも理性なんてもんを数学的に定義するなんて無理だしさ、そこを論理の飛躍で定義しようとするから数学的概念の濫用が成されてしまうわけだよね。この厳密な違いって普通に感じる違い以上の違いがあるんだよね。あまりに違いがあり過ぎて危険なぐらい違うんだよね。感覚的には似ている気がしたりして「それがこれにも言える」とかって言っちゃいがちだけど数学的事実と臆見は絶対クロスすることはないからね。エピステーメーに対する最下部の感覚による知識だよね。それがドクサ。


だからまぁなんつーか「角の三等分ができる」という知識はまさしくこのドクサなんだよね。でも人間はドクサを持ってしまいがちだからこそ証明とか定理っていうさ、厳然たる事実というものに照らし合わせてエピステーメーを磨いていけるっていうかさ、地頭だけでは無理だから証明とか定理とかっていう数学的事実を勉強するわけだよね。言わばエピステーメーを脳にインプットする作業だよね。そこが文系だとそうもいかなくて結局は文献の解釈なんて人の数ほどあるからドクサまみれになっちゃうわけじゃん?かといっても別に例えば哲学が厳密性に欠けるということで数学より下位に位置するか?っていうとそんなことはなくてむしろ解釈の学って気がするぐらいだよね。


あれはindividualな行為なのであってそもそも体系化したり科学にすること自体が間違ってるんだよね。んでも科学的な厳密性というのは哲学を作り上げるのに必須で、つまりは哲学的知識というものをエピステーメーにするための厳密性というのが哲学に必要なわけで、だから放言とかアフォリズムだけでいいか?ってそういうことじゃないんだよね。哲学の厳密性ってまぁ難しい所だけど今回はまぁいいか。また今度にしようかな。


あと角の三等分がなぜ不可能なのか?ってのをもっと理論的にミルカさんみたいに饒舌に説明できたらいいよねって思ったよね。それこそ数学エントリーとか普通にレパートリーに入ったら楽しそうだもんな。政治系とか書き尽くした感があるからニューコンテンツとして数学ってのはアリだよね。何度も言うように書くってことでまとまるっつーか納得できることってあるしさ、まぁ思考の整理としてだよね。あとはまぁ専門用語とか使わずに分かりやすく説明するってすげー高度なことだからさ、ここに書けるぐらい理解してるってのは理解の良い指標になると思うんだよね。ここにサラサラっとウォール伝調で書けるぐらい理解したいってのはあるからね。アウトプットとして文章で数学のことを書くっていいかもな。マジで。


ってことで今日はこの辺で。久々に自分のベッドで寝まする。