行方不明の象を探して。その301。

仮にあの一口目の体感を持続することができても、その先に何もないのは分かり切っている。そして僕は自分にふたたび訪ね始める。あの未知の状態はそもそも何であったか、いかなる論理的根拠をもたらしはしなかったが、その明白な幸福感と実在感とで他のあらゆる雑念を消滅せしめたあの未知の状態は何であったのかと。あの逃れ去る間隔を得たときはゾーンに入っていて、凄まじい集中の状態だったのかもしれない。だから僕はあの光明を得ようといかなる障害、雑念をも退け、ノイズキャンセリングヘッドフォンをした後に雨音が10時間続くYoutubeの動画を再生する。明鏡止水とはこのことか。

 

しかしそこにあるのは僕の意識だけである。プリンからは何も得られない。彼が差し出したプリンだったから、あれは魔法のプリンだったのだろうか。象と深い関りがある特別なプリンだったのか。しかし彼が取り出したプリンはどのコンビニでも売っているプリンである。

 

プリンの味によって想起された特別な知覚などという、結局は脳科学などに還元できるようなものではないことは明らかで、恐らくそれがたまたまあの時はプリンだっただけで、他にもそういうきっかけを持つ可能性があるものは多くあるのだと思う。僕はほとんど外に出ないのだが、例えば外に出てウォーキングなりランニングをしているときに、それは表れるのかもしれない。もしくは全く条件は不安定で特に決まりも何もなくて、その瞬間を待つしかないのかもしれない。

 

象を待つというのもそういうことなのだと思う。でもなぜプリンだったのかは分からない。僕がプルーストの失われた時を求めてを愛読するのもそういった理由からである。もしかしたらあれに近づける何かがあるのかもしれないと期待して読み続けるのだ。そしてそのつまらなさに悶絶する。こんなものが20世紀文学の最高峰の一つなんだとしたら、文学なんてないほうがいい。

 

内容などどうでもいいし、出てくる人物や、世間で言われているくだらない評論の類の、当時の時代風景やらブルジョワ階級の風景やらなにやらが描かれているからどうのこうの、そんなものはもっとちゃんとした歴史書なり記録を見れば済むわけで、あんな意味不明の無駄に長い本を読んでそんなことに思いを馳せる必要もなければ、プルーストからそれを知る必要は全くない。

 

プルーストの文学的価値がどういうところにあるのか分からないし、それどころか底辺の作家だとも思うのだが、恐らく一般的に言われている価値は通俗的なもので、あの瞬間が来るかもしれないのを待ち続ける感覚を想起させる稀有な本という価値は見出されていないか、コアにハマった読者にしか分からない感覚なんだろう。

 

それはブッダや道元やほかの様々な偉人が書いた悟りに関する本を読んでも悟りが得られるわけではないのと同じことだ。禅の公案が論理的にも意味的にも全く意味を成さないのと同じで、「失われた時を求めて」はそういう公案しか書かれていない本なのだ。アクセスできる人間ならプルーストを読むことで、わざわざ禅寺で修行しなくても、公案と向き合う生活ができるようになる。

 

「失われた時を求めて」に出会ったのは本当に偶然のことだった。その時分はまだ今ほど引きこもっておらず、割と友人も多くて一応携帯電話を持っていたりして、どこかで飲み会があると「来ない?」という誘いが来たりしていた。そんな誘いに乗って行った飲み会の帰りにふらりと酔った深夜の青山ブックセンターで、僕はプルーストの「失われた時を求めて」に巡り合った。なぜ手に取ろうと思ったかは酔っぱらっていたので定かではない。しかし僕はその本を手に取りパラパラめくってみた。

 

文庫本で10巻か16巻か、何巻に分かれていたかも定かではない。というのも「失われた時を求めて」に取りつかれて以来、僕は色々な出版社から出ている様々な翻訳者のエディションを全て買い集めたから、最初に手に取ったものが、どの出版社から出ていたものなのかの記憶が定かではない。相当酔っぱらっていたのだろう。

 

でも一晩明けたら酔いは覚めるわけで、本を読み始めるのも当然、翌日以降になるわけだから、覚えていそうなのに覚えていない。ただ内容はすべて覚えている。全く意味のない記憶の連鎖が永遠と書かれているだけの、何の価値もない本である。本自体も何かの同意があるかのように、別々の出版社から出ているエディション全ての装丁が地味を通り越した地味で、タイトルや著者の名前さえ注意して探さなければ分からないようなデザインになっている。

 

ミニマルなデザインというモダンアート的な趣は一切なく、もうちょっと何かをすればいいのにと思うような素っ気なさなのである。誰にも読まれなくても別にいいんだけど、という投げやりな雰囲気が本全体から漂っていて、どのエディションにしても翻訳者と巻数が違うだけで、装丁がどれもこれも同じように地味なので、全く見分けがつかないから、最初に手に取ったものがどの出版社だったか覚えていないのも、単純にアルコールのせいにもできないところがある。

 

そんなものを買うのに僕は躊躇していた。買おうかどうかどうしようか迷い、はたと気づいた。いま財布の中には千円札が一、二枚しか入っていない。当時はクレジットカードを持っていなかったし、割とお金を持って行ったつもりでも、結構な額を飲み会で使ってしまっていたのだ。小銭までかき集めれば買えないことはなかったのだが、そうすると帰りの電車賃がなくなってしまう。とりあえず一巻だけ買うにしても、こういう問題があったので、その日は買わなかった。そういえばそうだった。手に取って存在を知っただけで、深夜の青山ブックセンターで買ったわけではなかったのだ。今思い出した。

 

僕は本を棚に戻し、店を後にしようとした。そのときだった。

 

「その本、買わないんですか?」

 

知らない男が突然話しかけてきた。

 

「えっ?あ、いや、お金・・・いや」

 

「買えばいいのに」

 

その人はちょっと怒ったような口調で言った。

 

「どうしてですか?」

 

「迷ってたでしょ。だから」

 

さっきから観察されていたのかと思うと、少しイラついたし、若く見られるのは悪いことだとは思わないのだが、馴れ馴れしいそのタメ口に相当イラッと来ていた。プルーストの本にまつわるこうした付随する記憶が腐るほどあるのは、プルーストが書いた本の内容と連動しているのだと僕は解釈している。

 

それは起こる人には起こるもので、繰り返す必要はないのだが、起こらない人には起こらない。それは熱心な読者であるかどうかは全く関係が無い。ただそれが起こった人が起こったことに自覚的でなおかつ熱心な読者であった場合にだけ、象の再来を思わせるような、あの感覚を得られる可能性が高まる。あの感覚を確実に得られるかどうかは分からない。

 

ただその辺をフラフラしているよりかは蓋然性を明らかに高めることができる。文字に魔力のようなものが宿っているのかもしれない。でもそれは文字自体ではなく、プルーストの書いた文章に引き寄せられる人は一生縁が無さそうでも必然的に引き寄せられて、引き寄せられた人は、失われた時ならぬ瞬間を求める生活に没入することになる。

 

「あなたはこれ読んだのですか?10巻組で分量が半端じゃないみたいですが」

 

彼はそれには答えずに、なぜかもじもじした。

 

「そんなに面白いものだとは思えないんですけどね」

 

「そんなことはないよ」

 

「そうなんですか」

 

僕はもう一度本を手に取って眺めた。やはり強烈な既視感がある。自分が関わっている何かだこれは。でも一世紀前のフランス人の著書と僕に何の因果関係があるのかが全く分からない。書き出しを読んでみる。げんなりするぐらい何を始めようとしているのかがさっぱり分からないことが永遠と続く予兆があって、パラパラ本をめくっても永遠とそれが続いているようにしか思えない。僕がこの本を読むことはないだろうと確信した。なんなんだこいつは。

 

プルーストって名前は聞いたことあるけど、相当イカれたやつだし、こいつも例の本屋に長蛇の列を作る作家みたいに別な意味でイカ臭いやつだと思った。あの作家のイカ臭さではなくて、こいつ特有のイカ臭さだ。脳神経とかに関係があるイカ臭さがする。脳の手術をして脳を開いたときに「プーン」と匂ってくる匂いだと思う。例の作家のイカ臭さがザーメン臭さなのだとしたら、こいつの場合、脳の臭さだ。

 

「わかりました。買うことにします」

 

そういって顔を上げたときには、もう彼はいなかった。別の売り場へ移動していく背中が見えた。なんだ、と思ったが、僕は本をレジに持って行った。なんなんだ。脳がハックされている感じがする。結局、やはりこの時に買ったんだ。この本を。じゃあ帰りの電車賃はどうしたのだろう?Suicaなんて無かった時代だ。

 

外に出ると雨が降り始めていた。やはりここでイメージがダブる。何かといえば雨だ。普段、僕がノイズキャンセリングヘッドフォンで外界の音を完全にシャットアウトするときに聞いている音が例のYoutubeの雨音10時間で、他のシャットアウト系音源を試してみても、雨の音が一番しっくりくる。そしてなんかいつもあの瞬間が来るんじゃないか?という期待が湧いてくる。そういうことだったのか。プルースト繋がりだったのか。

 

読書とは異様な行為で、元々人間に識字能力なんてのはないわけだから、読書という行為は脳自体を変える効果があるらしい。しかしプルーストの本は僕の人生を変えてしまった気がする。それは僕の人生を変えた決定的な一冊!のような、影響を受けた本という意味ではなくて、プルーストの本に出合って以来、僕の人生は変わってしまった気がするし、あれ以来、ずーっとこの言葉では表現的なモチーフが僕の人生のど真ん中に陣取っている。

 

僕は胸が走ることを主体化できない。窓から漏れる信じられない光が夏らしい装いをしているモデルの下着を現わす。働く女主人と主婦の購買欲を刺激するすっきりと爽やかなバインディング。きれいなデザインとオフィスの厚さがこれを裏付けている。

 

本当に置くのが難しいものは、それがエロではないはずなんですが、と言われて困った俺は結局エロになったということです。道を歩いてみると見えるパンチラ、機能性を追求しながらさらに明らかになったスポーツウェア、そして、人々が自分の性欲を疑わない方がおかしい。フェラの途中で1,000円をもらうように、仕事を終えてお金をもらうよりも印象的だろう。いいえ、仕事をしたことがないのでわかりません。はい、オマンコの下着のページに住むデュアルエロがあります。

 

ランジェリーモデルは残酷なポーズを取らないことで有名だ。彼らは製品モデルとして完全に明るい夜であり、異性の下半身を刺激する目的はない。彼らは、製品の魅力を伝えるために、ビジネス的にホステスに体を提供し、我々の期待を知らない。だがエロい。だからエロい。エロ服を着るつもりはないが、エロになった事実が最もエロだ。それはもうね、ただのエロティシズムだと。