数学セラピーなのかな?

相変わらず書く事がないので近状を。まぁミネルバモードは落ち着いた感じっつーかルーティン化してるわね。夜中にずーっと本を読んでいるって感覚が無くてもう普通に生活している感じね。でも俺の場合、普通の生活ってのがありえないわけだよね。昔から。


だから結局、落ち込むっつーか鬱だとか良くない感じの妄想とかに陥らないためにするには何かをずーっとやってるほうがいいわけだ。だから今はいかに自分の時間を作らないか?ってことに生活の設計を置いてる感じだよね。やることはやりつつも常に数学中心の思考で「そういえば気になってたアレ調べてないなぁー」とかね、検索するのも数学の事が多くなっててさ、良い意味でネットの世界と距離を保ててる感じだね。


まぁようはいかに自我を無くすか?ってことだね。俺の鬱とか精神系のやつは客観的に見てもう治らないものだし一生つきあっていかなきゃいけないことだから、んだからこそそれとの付き合いってのを考えなきゃいけない。で、考えてるつもりだったんだけどここ半年ぐらいヤヴァかったんだよね。で、しつこいようだけどミネルバモードで没頭するようになって割と鬱が改善したっていうかようは余計な事を考えなくなるんだよね。寝て起きたらもう「数学だ!」って感じで今はビックリマークが付くけど付かないぐらいに自然になればいいと思うんだよね。


思うにニューヨークの頃はそれで生活してた気がするんだよな。ようは読書とか哲学書を読むってことをミッションにしてるってことで恒常性が保ててるみたいなさ、それが将来にも繋がるって勝手に思い込むことで凌いでたんだけど、まぁこれまたしつこいようだけど今は色んな大義名分っつーか目標とかが無くなってさ、まぁすんげーロストな感じでどうしていくか?ってときにまぁ幸いなことに数学が支えになってるわけだけど、怖いのは飽きるってことだね。


音楽とかだってまさかこんなに熱が冷めるとは思わなかったもんね。一生大好きで居続けるもんだと思ってたらすんげー持ってたレコードとかCD売っちゃったりして、まぁ音楽ってでも20代のやつがハマりがちな若さの象徴って気はするけどさ、最近は強いて言えばブルースが好きなんだよね。アコースティックの黒人のやつね。白人のは胡散臭くて聞いてられない。いや、あとはまぁ映画もそうでしょ?まぁ結構今でも見てるけど一時期の熱が凄かったから、この冷め具合が凄いなってことじゃん?哲学に関しては冷めたつもりはないけどこれまたいつも書くように文献学みたいなものと哲学をごっちゃにしてたってのがあってさ、色々と読む事が哲学なんだって思い込んでた時期が長かったわけでしょ?


で、まぁあれは自分がやることでこの直接性でしか哲学はなされないと。まぁ哲学書を読むってのはだから文学書を読むのと一緒なんだよね。別に哲学書だからっつって哲学なんじゃなくて文学でも映画でも哲学っぽいやつもあるしそれこそアニメとかでもあるじゃん?ようはphilosophizeするってことだよね。だから別にそれが哲学書やら哲学者と言われてる人達の著作に限る必要はないわけで、だからまぁそういう意味だとattitudeだよね。認識の姿勢っつーのかな?


あとはまぁやっぱり色々読んできて一通り落ちついたってのが大きいわな。で、色々と考えていたことも一通り落ちついたっつーかさ、そう思うとなんかすんげー詳しい研究書とか何なんだろうな?って思えてくるよね。何々の書簡に書いてあったのと著作のなんたらで言及されている何々は云々・・・みたいなのって哲学史だよね。哲学ではないよね。でも別に哲学史は悪いとは思わないけど数学史然りで面白いけど俺はやっぱり直接性を求めてるんだよね。それ自体をやれることね。


だからまぁーなんつーかさ、バーチャルリアリティと現実の差ってまぁ強いて言えば自分の存在によってそれが現実と規定されるみたいなところはあるじゃん?まぁデカルト的な感じか。結局は全て知覚に依存してしまうっていうさ、いや、そこで物事の客観性がないというわけではないんだけど、その客観性もまた主観を介するしかないってのはフッサールが言ってたことだけど、俺が考えているのは前に俺が書いたハイパーリアルなんだよね。それを俺は求めてるんだよね。世の中全てが噓だらけだーとかって嘆いているレベルではなくて、それは認識的にも構造的にも社会的にもまぁ色んな意味で噓だらけなわけでさ、だからこその本当の知覚とは?っていうことを考えるってことなんだけど、それを凄く数学を通して感じるようになったんだよね。


前にもそれは思ってたけど最近は結構な時間を費やしているからそっちのほうがリアルなんだよね。俺にとっては。まぁ実際そうだと思うけどね。数学的実在ってのは主体とか知覚に依存せずに存在しているわけでしょ?まぁそこは色々な意見があるけどさ、そういったものを知覚する能力というかperceptionっつーかさ、tangibilityっつーのかな?それを知覚できるようになるための一つの方法として数学という言語を理解するようにするっていうさ、そういうことなんだよね。だからもう数学でどうのとかってもう本当にどうでもよくなってきたね。いや、学校がどうのって前に書いてたじゃん?社会性との両立性があるとかなんとかさ、でもやっぱり俺はその自分で常に考え続けてきた分かるってことだとか知覚とかリアリティとかってことのさ、その一つの解釈が数学なんだよね。数学というリアリズムね。まぁオントロジーでもいいけど。


で、一番いいのはそこに俺が存在する必要がないということね。ようは自分は数学を知覚する意識になるってことなんだよね。それが直接性なんだよな。俺が前から書いてる体なんていらないから電脳に直で意識が繋がってりゃー永遠と知識欲を満たせるじゃん!っていうさ、それに凄く近い感じだよね。数学は。でもそれはなんつーかやっぱ普通にしてちゃダメでさ、色々と知覚できるようにならないといけないんだよね。別に練習問題をやるとかっていうことじゃなくて知覚するトレーニングだよね。イメトレでもいいんだけど。で、そこは脳っていいもんでさ、やっぱ鍛えていけば強くなっていくんだよね。年齢とか関係無くやれるようになるわけ。まぁそこがコミットメントの度合いの話になるんだけど。


ミネルバ以前の俺はそういう意味で所詮はやっぱり学科として数学をやってたって感じだよね。でも実は自分にとっての知覚とかリアリズムとか意識っていう問題と直に繋がっているようはオントロジーなんだなってことに気がつけたのね。いや、すげー宗教的だよね。前にも書いたけどこういう世界観ってカルト系と似てるよね。神と一体になるとかなんとか。でもやっぱり俺は動機が言わば実存的な問題が大きいわけじゃない?好きだからやっているってのもあるけど没頭出来ることがないとただひたすら毎日辛いだけだっていうことがあるわけでさ、そこでまぁ逃げてるって言われればそれまでだけど、依りどころになってるんだよね。


数学ありきで朝日が綺麗だなぁーとかなんとかさ、そのfoundationだよね。帰国後のidenitity crisisを解決できたというかなんというか。まぁでもさっきも書いたようにいつまで続くかは分からないよね。こういう性格だから飽きっぽくて飽きちゃうかもしれないけどさ、でもいや、仮になんか他にすげー没頭出来ることが見つかってそっちに行くならまだしも何もない中で飽きたら最悪だよね。今の所は飽きるとはとても思えないんだけどね。時間がかかり過ぎるから飽きようがないというかなんというか。


飽きるほど数学書を読みあさるってまぁそりゃー達人への道だわな。もちろん自分で色々考えるっていうベースありきでね。んでもまぁまだ全然最初だからさ、5年はかかるかもね。哲学も入門から始めて色々とザッと読んで大体把握するのに5年はかかったと思うから数学もそんぐらいかかるかもしれない。そのザッと把握している自分の認識というのに興味があるよね。それでまだ続けるのか、数学という大きな基礎ができたからそれを武器に他のフィールドへ飛び込めるのか、まぁそりゃ分からないよね。別に数学オンリー!って決めつけることはないよね。今がオンリーなわけで。


だからまぁなんつーかニューヨークの頃に読書に没頭していたように今はようやく色々あって数学に没頭出来るようになってきたってことだよね。まだまだ足りないとは思うけど。で、この三昧を続けてんで様子を見るって感じかな。そういう余裕のあることを言ってられないのかもしれないけど、まぁ最低3年ぐらいは今ぐらいのペースでやるって感じにしないと次が見えないと思うんだよね。ミネルバ以前のペースなんて問題外だわな。本当にそう思うと帰国後は時間を無駄にしてきたなって思うね。マッシュアップとかギターは楽しかったからいいけど。


あとはさ、数学しかないから「これしかない!」って必死になってないか?ってのは常に自問自答するところだよね。それでやってたら絶対極まらないしダメだもん。そうじゃなくて心の底から数学を楽しんでるか?っていうそこだよね。楽しくてしょうがないからやっているんじゃなきゃダメだから、そこは変な意味で必死になったら終わりだなって思うのね。obsessionならいいんだけどね。それはもう中毒ってことだから。そういう強度の強いものが何年も続くもんなんだろうか?ってのは色々と思うところだけど、そこはなんつーかまずあれだよね、壁が見えるまではないよね。


読んでいけば読んでいくほど次読みたい本ってのが増えていくからそれの無限ループになるじゃん?で、数学の場合、凄まじく時間がかかるんでそれでもう何年も過ぎちゃうだろうなと。そりゃまぁ波はあれど強度は常にあるよね。だって知的刺激でやってるわけだから。もう他の事がつまらなさ過ぎるし数学が分かってきたから面白過ぎるしってところだよね。他の事があったら他の事をやってると言っても他の事がもう考えられないんだよなぁー。ゲームですら飽きるからね。何十時間やってたら。数学は飽きないのが凄いよ。ホントに。


飽きないっつーかまぁ時間がかかり過ぎるって感じなのかな。全然進んでないのにもう朝になっちゃった・・・みたいなのが多い気がする。ただやっぱハマってるときは楽しいんだろうね。そういう自覚はないけど辛い時間が過ぎるのではなくて時間が過ぎるのを感じる間もないまま時間が過ぎていってる感じなわけだから、まぁそれが今の俺にとっての実存的な救いになってるってことだよね。


まぁそういうことですな。まぁなんつーかセラピーなのかもね。芸術療法とかあるじゃん?ああいう感じなのかも。思えばまぁ昔やってたノイズもセラピーだったからだからまぁメンタルクリニックって名前だったわけだけど、そう思うとやっぱ俺は変わってないっつーか俺は俺だなっていう。そのセラピーのジャンルが変わったってことだね。んでもそれをセラピーっていう個人的なことで終わらすんじゃなくてやっぱり社会的な何かに繋げたいよね。極めるという動機の一つとしてやっぱりそれは持っておきたい。そうしないともうただの隠居になるからね。それはダメだなと思うのね。


ってことでんじゃまた。