相対的・主観的。その12。

では続きです。

 

あ、んで話は戻って消費なんだけどさ、レコードなんだけどあんだけ買って一回しか聴いてないのとかが多くてっていうかそういうのばっかだったりサンプリングしたらもう聴かないみたいな、こういうのってモロに消費じゃん?まぁクラブトラックなんて消費モンだけど自分がクラシックなテクノを聴く時の態度って消費じゃなくて90年代のテクノっていうある種あの時代のスタイルの永遠のものを聴いてるわけでそういうのを中心に買っていかないとただ枚数買って安心するみたいな、例の買う快感っていうところに比重が行き過ぎて不健全な消費になるよね。

 

まぁそういう消費をしてきた俺としては恐ろしいことに「買っている自分」が主体になると「音楽を楽しむ自分」という音楽によってもたらされる体験による主体性というのが無くなってしまって「買うこと」が軸になってしまうと自分が熱心な音楽リスナーとか音ネタに飢えているディガーというところからただの消費者に成り下がっちゃうんだよね。

 

それが見せかけとか見栄とか一時的な快楽とか虚無を埋めるためとか色々な理由での消費というのは考えられるけどこういう表層的な消費の仕方だと虚しさから逃れるためにやるゲームが終わった後の喪失感みたいなのを常に大量消費した後に感じるようになって、前に書いたような虚無というラスボスをFeedしてしまう結果になっちゃうんだよね。

 

これはモノがなんであれ消費全般に言えることでぶっちゃけ額の問題でもないんだよね。あとはまぁエクササイズセットとか「これがあれば毎日のルーティンが出来る」とかって思って買うような健康グッズとかも瞬間的な満足感で終わることが多くて残るのは使わなくなったガラクタっていうことになるよね。

 

レコードにしても本当に欲しいと思って買ったものと枚数ないと不安になるから買い足したようなものと明らかな差があるというか、まぁ中には適当に買い足したやつに当たりがあったりもするんだけど前に書いた中身が分からないレコードを買うガチャ感っつーのもソシャゲーのガチャと一緒で言わば麻薬だよね。結果失敗したら全く聴かない場所を取るレコードだけが残されて二束三文でも売れればいいけど買値すらつかないものとかになると全く使わないエクササイズグッズと同じような感じっつーかただ捨てるにはしのびないみたいな微妙なものが場所を占領することになるよね。

 

まぁ例えばもはや人々はブランド物を買うことで満足するようなことは無くなったとか、モノ依存自体に疑問があってそれは消費然りなんだけど、その中でもちろん有用か有用ではないか?みたいなユーティリティの問題ではなくて自分が好きでそれを買ったのか?っていうその購入の動機とモノの関係性だよね。

 

それが明確ならフィギュアだろうが生活の中で全く使わないものだろうが全然いいわけだよね。モデルガンが死ぬほど好きで何丁も持ってるとかってのもめちゃめちゃ好きで買ってたらそれは大正解なわけで、だからやっぱいかに好きなものとか好きなことを持つか?っていうことだよね。

 

それが結果的に消費における主体性を生み出すっていうかようは「好き」ということ自体が主体じゃないといけないんだよね。まぁいけないってことはないけどそうじゃないと大体その場しのぎの「買った」ということの満足感で済むことになっちゃう。で、それは虚無にFeedする結果になるし額の問題ではなく言わばただの浪費なんで後からカードとかで請求が来た日にゃーたまらんってことになるよね。

 

まぁこうやって書いてる俺も別にそういうことは今でもあるし後悔もするわけで、なんつーか好きを極めたが故に主体性が良い意味で無くなって主従関係が逆転するみたいなのは最高なんだけど「好き」が中途半端だったりすぐ飽きるようなものだったりすると色々買ってみたはいいけど後にガラクタ同然になるっていうね、結局、モノの価値って市場価値とかを考えなければ主観的なものなわけでよく言われるようにある人にとってはガラクタでもある人にとってはお宝なんてものがあるわけで、でも何が本当に好きか?なんて結構分からないもんだよね。

 

断捨離とか今流行ってるのか分からないけど一時期なんか宗教がかったミニマリストブームがあったけどあれが出来るのってのは高度な精神世界での分別が出来る結果、モノを捨てられるようになるわけでガラクタを買わないとか増やさないとか捨てるっていうことではないんだよね。何が本当に好きで必要か?とか必要ではないけど好きだから買うとかってこの買うって行為も凄く曖昧なわけだしその時の気分とか気分が高揚してるときはいいと思ったけど次の日「なんでこんなの買ったんだろう」ってことにもなったりとかするわけで、あとまぁ久々に店に行くといっぱい買っちゃうってのも本当に好きなものは一部でただせっかく来たんだからなんか買っていこうみたいなのが少しでもあるとそれを繰り返すたびにさっきのレコードガチャとか枚数無いと不安だから買うみたいなのが増えて結果ガラクタが増えるっていうね。

 

でもその見極めってめっちゃムズいよね。今回続いてる主観客観の話だけど結局価値基準ってのがまぁ前に散々書いたことでもあるけどそれがマーケティングとか「買うなら今しかない!」みたいな限定商法によって踊らされてるのかとかね、あとまぁレア度を競うみたいな、競う相手がいなければ成立しないような価値観とかってまぁ全部結局は無に帰しますよね。ファッションなんかはぶっちゃけ誰も人がいなくても無人島で生活するにしても着ていたいぐらいのものぐらいしかいらないと思うんだよね。

 

だから結果的に「これだ!」というもの以外ぶっちゃけあんまいらないしそんなに頻繁に外出するわけじゃない俺みたいなタイプだと余計にそんな洋服買っても体は一体しかないんで着れませんよってことになるよね。まぁスニーカーコレクターとかの世界は別だけどねっていうかあれはまさに「好き」の頂点みたいなもんなんで履く履かないとか関係なくスニーカーの世界自体が一つの環世界みたいなもんだから一種の生態系だよね。

 

例えば媒体が音だとぶっちゃけレコードで買わなくても特に新譜なんかはbeatportとかで買った方が早いし安いってことがあったりするとあとはレコードへのフェティシズムだけど90年代のテクノにしかフェティシズムを感じない自分としては音が聴ければいいってことになるからコレクションの対象にならないんだよね。

 

それに比べてスニーカーってのはリミテッドモデルとか今しかないコラボとかまぁこれもマーケティングっつっちゃーマーケティングだけどマテリアルだしオブジェ的な要素もあるから他に代替が無いよね。何か要素をデジタル的に取り出してそれで済むというものではないし、まぁなんかの映画とかアニメみたいに洋服を全部デジタルプリントっつーかデジタル写像して全く素材とか関係なくデータを衣服にシミュレートさせて着るなんてことが可能になったらデジタルでいいものと本物がいいものと別れてくるだろうけどまぁでもマジで「好き」な人たちはデジタル写像可能になっても買い続けるよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。