文学三昧な日々。

恐るべし!文学。サンプリングソースを探すために聞くレコードとかだとそこまで好みじゃないのもネタ探しって意味で聞けたりするけど文芸然りじゃねーか!っていう感じだね。

 

もうすっかりハマってしまってさ、あと本が安いんだよね。まぁ普段買うのが学術の専門書とかだから文学の古典とかの場合、著作権が切れてたりするのもあってとにかく安いよね。別に肌に合わなくてもそれはそれでいいやっていうか「ふーんこんな感じなんだ」的なね、クラシックを一通り聞いてみるみたいなのと似てるかもしれないね。

 

それにしてもまぁ趣味が一つ増えたみたいな感じでさ、今まで俺はもっぱら読書っつったらインプットのための読書だったけど物語を文字で読むってことがこんなに楽しいことだとは思わなかったんだよね。んでまぁ当然、同じ文字を使ってるのに作家によって全然色合いが違ってくるっていう、まぁ大げさに言えば文字の芸術ですよね。

 

んであとすげー逃避的な効果があるっつーか、耽読してるとその世界に入り込むから映画見てるときとかゲームやってるときみたいな没入感あるじゃん?まぁ面白いと思えるやつに限るけどね。まぁこりゃ好きな人はハマる世界だなーとか思いつつあれなんだよね、好きになったら深くディグらないと気が済まない俺の性分で、色々と読んでみようと思って読んでるんだけど、まずは広く全部大体読んじまおう!ってことで日本文学全集全巻と世界文学全集全巻注文したんだよね。分厚いのが何百冊くるわけなんだけどまぁそっからサンプリングしたり単純に良い出会いとして生涯好きになるような作家を見つけられたりしたら最高じゃん?

 

まぁあと全集っつっても安いわけですよ。まぁぶっちゃけ本ということにこだわらなければKindleとかで100円とかタダで読めたりするけどそこはやっぱ紙がいいじゃないですか?全部パクっていいですよって勝手にコモンズとして考えると全然見方変わるよね(笑)まぁパクリじゃないものなんて無いってのは前から音楽で書いてるけど文芸なんてよりそうだろうなって思うわけでね。

 

あとまぁ当たり前だけど書くことを習慣化させることだよね。まぁこのウォール伝形式のはもはや書くというより脳を印刷してる感じだから書くって感覚がないんだけど、まぁ小説を書くってことだよね。それを少しでも毎日やるっていうね、俺って何かができかけたりビジョンが見えてちょっと形になるともう分かっちゃって満足しちゃうから、その辺のまぁ長期間粘る感じっていうかさ、そこはなんか短期的にやるより短期的にやるのだったら一気に大枠書いちゃったり決めちゃったりして、あとはもう書くべきものを書くようにするだけみたいなプロセスを残しておくっていうね、まぁこれが基本的になんつーか創作の楽しさよね。

 

曲だって作ってる時が一番楽しいわけで終わっちゃうとまた次!ってことになるんだけどなかなかそれが見つけ出せなかったり今の俺みたいにやりつくしたりしてるとアレなのがまぁ小説だと入門者もいいところだから色々やれるよね。思うに野望を持たないってことが本当に大事だなと。まぁ前にも書いたけど俺が曲を作るときに音楽界に激震をもたらしてやろう!とか思ってないわけじゃん?ましてやどれだけ聞かれるか?とかも全然気にしないで、ただ一応アップロードはするっていうね。

 

小説も同じでいいんだよね。基本的に書くということが楽しいってのは最高の趣味を見つけたようなもんでさ、基本暇しないよね。あとまぁ文学入門じゃないけどまぁ全く触れてこなかったっつーか部分的にしか触れてこなかった文学に触れてみるっていうね、んで気に入ったフレーズがあったら即、サンプリングして使うっていう(笑)

 

常にワードを開いておいて書き途中の画面をすぐ出せるようにして一瞬で思いついたり「いいな」と思ったフレーズとかがあったらすぐパラフレーズして書ける状態にあるってのはまぁサンプリングで音楽作る人間がMPC的なサンプリングパッドやらDAWにレコが直で刺さってていいなと思ったら即、サンプリングしてループさせて適当になんか乗せてどんな感じになるか楽しめるっていう、まぁ創作の醍醐味ですよね。こういうのやってるときが一番楽しいんじゃない?

 

んで改めて文化資本はコモンズであるべきだと思うようになったね。まぁアダプテーション理論の本とか読んでると映画とかもアダプテーションだらけってのがよく分かるんだけどまぁ作曲もいつも書いてるけどあからさまにサンプリングだって分かってるほうが良くて狡猾なやつは分からないようにあたかも自分が作ったように見せかけるから作曲家みたいなやつのほうがタチが悪いってよく書くけどさ、文芸も全く同じよね。

 

オリジナリティなんて幻想ですよ。マジで。なんかなぞってるだけよね。オリジナリティがあるとすれば全く音楽を聴いたことない人間が急に音楽を作り始めたらそれはオリジナルかもしれないけどまぁありえないじゃん?なんか色々聞いてきたやつの自分バージョンとか結局はまぁミクスチャーなんだよね。文芸もそうでしょう。全てがとは言わないけど大体そうなんじゃねーの?っていう。

 

まだ読んでないけど文学の盗作史みたいな本とかもあって、まぁ案の定、音楽と一緒で盗作だらけっていうさ、まぁそのすぎやまこういちみたいな明らかなクラシックのコピペはともかくとして多分、あれなんじゃないかな、そのミクスチャー的な意味での盗作っていうことを考えると前に書いたようにビートルズとかツェッペリンとかロックに詳しいわけじゃないけどブルースあってのもんじゃん?最近になって裁判沙汰になったのもあったりするけど、音楽とかもまぁ明らかなパクりってやつをっつーかこの動画作った人誰?っていうぐらい幅広ジャンルの盗作をまとめた動画とかあるじゃん?

 

音楽は恐らく文学よりダイレクトで分かりやすいんだよね。でも文学の場合、音楽が何分か聞けばすぐパクりかどうか分かるのに対して、文学の場合、ましてやそれが長編とかになるとそこまで読まなきゃいけないじゃん?だから監視の目ってわけじゃないけどそこまでなんつーかバレないっていうかでもまぁバレてんだけどね(笑)ただバレるにも元がなんかの古典を元にしてたらまぁ明らかなオマージュとして作ってるならともかく悪意のあるパクリだったとしても古典に精通してないと分からなかったりとかさ、でもまぁあれだよね、前に文学者はダメ人間ばっかって書いたけど、神聖化されがちな文学も雑多な音楽と一緒で色んなやつのコピペだらけなんよね。

 

それこそ大本の構造と言えばそれが神話だったりさ、中世の戯曲とかさ、シェイクスピア的だとかなんだとか、舞台装置みたいなのがあって、なんか俺みたいな文学音痴からすると小説を書くって天才しかできないように思いがちだけど色んなの持ってきてある程度文章書ければ誰にでも書けるんだよね。まぁそのうちAIが書くようになるだろうけどね。

 

まぁでもそれで良いのができるかってのは別なのは言うまでもないよね。音楽然り。まぁでも今の俺がやってるマッシュアップ小説だってとっくに昔からあるような手法だし高慢と偏見とゾンビみたいなのも腐るほどあるだろうし、ラノベとかの世界になったらまぁそりゃより一層そうなんだよね。

 

音楽が誰にでも割と作れるようになったのは音楽の民主化っつーか機材に金がかからなくなってPCもそこまでハイスペックなやつじゃなくても割と作れるっつーんで誰にも作れるようになったんだけど小説はそういうテクノロジー的な恩恵ってそこまでないようで実はただの考え方ですでにあるものを文化資本のコモンズっていう風に考えればバロウズがジェネPに全ての音とか表現されたものはカットアップ可能であるって教えたように実際にアーカイヴなんだよね。

 

DJカルチャーだとまぁそれが顕著なわけじゃん?レコード化されたやつはもうアーカイヴでスクラッチできるしいかようにも解体して再構成可能であるっていうね、でもまぁ文学も同じだと考えると一気に敷居が下がると同時に先生ぶってたり先生扱いされてる人間も恐らくは最初はコピペから始めたんだろうしピカソもコピペから始めろとかって言ってるし基本模倣ってアリストテレスを出すまでもなく人間の本能よね。

 

だからそういう本能的な部分から始めるっていう風に考えれば文化資本へのアクセスが容易だったり古典の電子書籍が全集で100円とかで買えるのってのはまぁ大量のサンプリング素材が100円で買えちゃうっつーことなんだよね。

 

まぁ著作権云々とか野暮なことはサンプリング魔の俺が言うことじゃないよね(笑)別に俺みたいになんでもないやつが勝手に自分の楽しみのためにサンプリングするなんてまぁほぼ私的利用みたいなもんなわけよ。だからみんなサンプリングすればいいんだよね。なんかもっと楽に考えたほうがいいんだよね。高尚なもんだという偏見をなくしたほうがいい。

 

ニュートンだか忘れたけど科学って巨人の肩に乗るようなもんだって言ってたじゃん?まぁようは科学っつー人知のコモンズに乗っかるってことだよね。まぁそれ言い出すとクラシックとかもバッハの真似やらモーツァルトの真似やらの繰り返しだし文芸に関しては古典とかをベースに改編するのが創作として認められてきたっつー歴史なんかがあるんだよね。今すげーペースでそういう本読んでるけど「なるほどなー」って感じだよね。

 

あと題材ね。谷崎潤一郎なんかをまともに読む時が来たのか!なんて自分で驚いたりしてるけどただの変態話を格調高い文章で表現してるだけでっつってもその格調高い文章で表現するっつーところが面白いんだよねっつってもまぁ大正とかの時期に足フェチ小説書いてるとかやっぱすげーなって思うんだけどね。

 

あとあれだ、学校の国語の弊害だなってこないだ思ったんだわ。学校で無理やり聞きたくもないクラシックを押し付けがましく聞かされると拒絶反応を起こすのが普通だよね。学校でモルダウ聞いて「モルダウやべぇ!CD買おう」って思う学生はいないか頭がおかしいやつかのどっちかだろう。

 

顕著なのが数学だよね。みんな数学嫌いなのが学校でつまらない数学を無理やり押し付けられてるから数式見るだけでアレルギー反応を起こす人が出てきちゃうんだけどリアル数学は面白いわけじゃん?で、文学然りなんだよね。国語で選ばれるやつが悪意があるんじゃねーか?ってぐらいつまらないやつばっかで冗談かどうか分からないけど文学に目覚めて本ばっか読むようになって学校のお勉強をやらなくなるのが危険だからあえてつまらないものばかりを載せているなんて話が冗談とは思えないような感じよね。

 

国語なんつって日本文学なんてヤバいのいっぱいあるわけじゃん?現代のフェチAVみたいな内容を書いちゃってる谷崎もさることながら開き直ってニートになって散歩するっつー散歩日和みたいな緩い反社会的文学を書いている永井荷風とか「お前は俺か!」と言いたくなるようなもんがあるよね。

 

あとまぁ別に国語である必要が無くて文学っつージャンルでやるんだったらそれこそバロウズとかケルアックとかを取り上げれば少なくとも退屈しないよね。今日はクローネンバーグの裸のランチを授業で流します。原作を巧みに使ったクローネンバーグのアダプテーションの妙を感じましょう!なんつー授業があったら楽しいよね。まぁ他の楽しいからどうかはともかく頭痛がしてくるぐらい退屈な国語の授業よりかはマシでしょう。

 

濡木痴夢男みたいな露骨なポルノ小説じゃなくてもエロ小説とかエロスを扱ったやつなんていっぱいあるわけだし、ましてや思春期のやつらだったら欲情するでしょう。まぁデジタルネイティヴだから関係ないか。まぁ学校教育って本当に反知性的だよね。良い人類の文化は退屈なものばかりだからちゃんと働きましょうって洗脳してるような場所だわ。まぁそんぐらい文学って反社会的なのが多いからね。逆にまぁちゃんと働きましょうなんて言ってる文学があったらそんなもんクソ中のクソで誰も読まないだろう。

 

むしろ凄いのは内容がAVなのに格調高い表現と文章で構成するとそれが芸術作品にまで昇華されるっていう文学の素晴らしさでしょう。もしくはニートが散歩して散歩の内容を同じく格調高い文章と表現で構成するとそれが文芸という芸術の表現の形態に昇華するっていうね。

 

まだ色々と読んでる最中だけど、基本的に特に近代になってからは所謂、文学臭いのってダメ人間が主人公でその自意識に苛まれてるとか、ダメ人間が普通ではない生活を送っていたりして、ただロッカーみたいに弾けた感じじゃなくて、永遠と独白を続けられそうな感じの生活をしてたりするんだよね。なんかそういうどうでもいいことが永遠と書いてあるのが文学っつーイメージは昔から変わらんのだけど、今もぶっちゃけ変わらないっつーか確信めいたもんになった感があるよね。

 

さっき谷崎の話を出したけど別に全然好きじゃないんだけど、エッセイとかにしても瓦から見る便所の話から街の風景を描写してベンヤミン的な歩く文学みたいな感じになってたりだとか、いやさ、便所の話とかどうでもいいじゃん?(笑)凄いよね。ああいうのが文学とされて偉人とされるんだから(笑)

 

事実は小説より奇なりというより小説の奇がリアリズムの奇と不条理に追い付いていないという感じだよね。特に凡庸を極めるような文学だとそれが顕著だよね。まぁさっき書いたような国語の教科書に載るような、明らかにこっちの頭をダルくさせるために選ばれたような悪意のある文学だよね。

 

文学から無駄をそぎ落としたら何も残らないだろう。マジで。哲学には余暇が必要だっつーのはルクレティウスが言ったんだが、もっとさかのぼればアリストテレスが言ってたと思うんだけど、文学もなかなかの余暇っぷりよね(笑)俺みたいな暇人がいてもたってもいられない感じで、こうやって色々と書きなぐっているというような性質と本質は変わらないんだよね。ただ文章がやたらうまいとか表現が上手いっていう言葉のアートなんだよね。

 

そういう意味でスノビズムを極めてる村上春樹なんかも三文小説アートとして読むと面白いよね。まぁそういうのを方法論的に取り入れたのがブコウスキーとかでまぁ遺稿のパルプなんかはまさにそうなんだと思うけど、なんだろうね、ブコウスキーのはまさにクソがクソをひねり出している感じなのに面白いのに対して、村上春樹のはクソがクソを垂れ流しているだけという現象に留まるっていうね(笑)

 

その辺の自己イロニーみたいな概念とか、本人が最初の段階で本人の作品をカリカチュアしてるみたいなところが最高に間抜けでナンセンスの極みだと思ってて、ダダとかシュールレアリズムとかがやってたような、インテリが知能を尽くしてバカやろうとしたり不条理をやろうとしてたのが、スノビズムの垂れ流しによって無化されちゃってるっつーかさ、不条理の本家を通り越しちゃってるのが凄いよね。

 

ハルキストとやらは何人がネタをベタで読んでるのか、ネタとして楽しんでるのか、あの発売日とかに長蛇の列になるみたいなのは一体何なのか?っていう感じだよね。不条理系の作家が可哀そうだなって思うわけよ。マジで。

 

あれこそ事実は小説より奇なりだよね。小説が奇というよりハルキストが長蛇の列を作って村上春樹の本を買おうとしているっていう現象自体が奇の中の奇という感じだよね。怪奇というか怪異というかね、その現象を起こすことも含めてメタ的なナラティヴとして半ば予言者的にそういう現象を起こすものを書いて、長蛇の列を作らせたり、村上春樹流のおつまみの献立を作らせたりとか、小説が怪異を生み出しているっていう意味ではある種のイデオローグとかよりも凄いイデオローグだよね。

 

イデオロギーなきイデオロギーだよね。ノンポリとかとはまた違う、なんか覇気のない俗っぽい文学特有のだらけた感じね。で、なぜか読んでるのが所謂「社会人」みたいな人たちが多くて、肝心のダメなマージナルな人たちはそんなの読まないっつーね、まぁそりゃそうだよな、自分たちの世界が奇なりなわけだし、俺がいつも言う狂ってるように見えるやつらのほうは実は根は真面目で普通ぶってるやつらが一番狂気を秘めているっていうところだよね。これはアーレント的な悪の凡庸さにも繋がるのかな。凡庸さの文学だよね。かといっても永井荷風みたいな、暇を利用して粋な生活をエンジョイしてます!っていう、「このごく潰しニートが!」って言われないような文学性があるか?っていうと皆無なのがいいんだよね。

 

そういうところも含めると学問と違って文芸ってのは読者の数だけ解釈があっていいわけだから自由だよね。書くのも自由だし読むのも自由。俺が今、文学を満喫してるのも「こんな自由の形態があったのか!」っていう感動があると思うんだよね。もっとお堅いインテリっぽい感じっつー先入観があったんだけど、全くそんなことはなくて、すんげー俗っぽいもんだよね。俗人が必死に文字を通しで何でもないことを芸術のレベルにまで昇華させようとしてる葛藤みたいなもんだよね。

 

なんかそういう意味でウォール伝ってなんでもありのノイズ垂れ流しの文章バージョンって感じだけど、それに対して小説はキーがあってなきゃいけないとかメロディがどうとか構成がどうとかってのを気にしなきゃいけないもんだと思ってたんだけど、逆にエッセイ風のようなものだったり、何でも書いていいよっていう完全に与えられた自由よりもむしろ小説っつー形態の中で自由にふるまったほうが自由の満喫度が違うんだよね。

 

あれは自由と余暇を謳歌するもんなんだ!って思うと精神の解放を得られるよね。村上春樹とかはかっこつけて文章で何かを表現して精神の解放になるなんて幻想だって言うけどそりゃお前が三文小説かだからだよって話で(笑)マジで凄いやつはカタルシスしかないんですよ。それは物語がカタルシスとは関係ないものであっても感じるものなんだよね。それが文字で成されているというところが凄いわけじゃん?音楽とか映像ならまだやりやすい気がするけど、文字でそれをやるっていうね。

 

ただまぁあれだわ、俺が好きなゲンオンとかと一緒でめっちゃ好き!っつーやつはサンプリングしまくってるからあんまそれについては書きたくないんだわ(笑)多分、なんかあれだよね、本当に好きなのって村上春樹作品の主人公が誇示するように作家の名前を出すようなもんじゃなくて、なんか秘めるものだよね。好きすぎるからあんまり言いたくないという、作品すらも独占したくなるぐらいの錯覚を覚えるわけだよね。あの子可愛いよねーってのは簡単に言えるけど、結構リアルな恋愛の場合、その人の名前を出しづらいみたいな恋愛の形態と似てるよね。

 

んでまぁ俺はそういう感受性に非常に恵まれてるんだなってのに気が付いたんで、逆に小説は読みたくないと思うようなものばかりを読んできたり、あとはそれは国語の授業の呪縛だったりして、んでまぁ読んできたのっつったらビートとかの文学というより実験的なもので自分の括りとしては文学という感じじゃなかったから、そこでまぁお堅いと思ってた文学にいざ挑戦してみるとすんげー俺って文人気質じゃん!ってことに気が付いたわけよ(笑)だったらもう勝手に文人だって思ってりゃいいんじゃん!っていう。

 

勝手に生きろ!とはよく言ったもんだよね。一般的には手あかがつきすぎてどうにもこうにも行かなくなってるレッドオーシャンなのに、無知が故にその甘さを知らなかった俺としては葉っぱでラリるようなブルーオーシャンっつーよりグリーンな大海って感じだよね。

 

いや、人生分からないもんだよ。それまで大嫌いだった宗教に目覚めたりっつってもまぁ結果的に宗教じゃなかったんだけど、まぁただ数年前の俺が将来の自分は「キリストに帰依してる」って聞いたところで「は?」って感じだったのと一緒で、将来の自分は文学に目覚めてグリーンオーシャンに突入して朝から晩までラリったままって聞いたらある意味、キリストに帰依するということよりも「は?」って感じだったと思うんだよね。

 

いや、マジで人類の知的財産と文化の偉大さを改めて知ったよね。んでまぁ存命の現代作家とかならともかく厳密な著作権が何年っつーよりももはや古典なのはパクりたい放題のコモンズなわけだし、こんなやりたい放題できる世界があったのか!って感じだよね。

 

だからまぁ今は翻訳はほとんどやってなくて(笑)自分のを毎日書いてるんですよ。それが楽しくてしょうがなくてね、なんかんで始めたばっかだから、オナニーの味をしめた中学生みたいな感じの、エロ本を隠し場所から出して読むみたいな、密かな楽しみ的な感じがあるんだよね。口が裂けてもリアルで「小説かいてます」なんて言えないぐらい恥ずかしいことなんだけど、その恥ずかしさがたまらないってのもあるよね。凄い背徳感がある。俺みたいなものが文学を書いてるだなんて、それだけでもうなんか文学がSで俺がMみたいな関係性だよね。観念的なSMというかなんというかね。

 

まぁそんな感じで目標としては音楽とかはもう出し尽くした感があるから今後は小説とか文章でその表現欲みたいなのを満たして生活の強度を担保していこう!って感じになってるから意図的に続けるという継続をする必要があるね。音と一緒で何か作るのが当たり前になるってのが今のところの目標だわ。ただの一過性のマイブームで終わらないようにしたいわ。何しろこんなに楽しいことを他の領域で探すのは相当無理っぽいからね。こんな楽しいことを見つけちゃってやべーなって感じだよね。

 

三島由紀夫の「若きサムライのために」って本の冒頭で、小説から人生始めるやつと人生から小説始めるやつってのがいて、それが大体人生の場合、40ぐらいが目安だみたいなことが書いてあってアラフォーの俺バッチリじゃん!っつーね(笑)またこれがセレンディピティ的な感じで家にある文学っぽいものを再読しようと思って色々ディグってたときにこの三島の本があってっつーか三島のは大体持ってるんだけど、こういうタイミングでこの本の冒頭のような内容に再開できるってのはなんか運命めいたものを感じるよね。

 

ってことでまぁそんな感じでんじゃまた。