文学三昧な日々。その14。

mk

かなり久し振り(数年ぶり)に訪ねてみて、耳蝉さんお元気そうでうれしかったです。ちょうどNY時代に読み始めました。また来ますね。

 

mkさん、書き込みありがとうございます。NY時代はかれこれ10年前にもなるんですけど、そんな前から読んでくださっていた方が戻ってきてくれたのは凄く嬉しいです。あれから色々あり過ぎたってのが腐るほど書いてあるので(笑)適当に読んでやってください。

 

最近は元気過ぎて発散する場所が無くてフラストレーションが溜まっていたときに「ひたすら書く」ということで発散させることができているので今の生活は最高って感じですかね。なんかよくアラフォーとかになると体力とか集中力が落ちてくるとかって言うじゃないですか?ぶっちゃけ今、人生で一番エネルギーがみなぎっている時かもしれません。もしくはこのエネルギーがどんどん増えるとかみなぎってる生活が続けばいいなと思ってます。

 

ということでここからエントリーなんだけど、コロナ禍が生活スタイルを変えるって結構いろんなところで見かけるけどさ、俺は関係ないって思ってたけど思えば関係あるなぁーと思ってさ、アシッドに没頭してたのもあれじゃんね、思えば今みたいな感じですよ。起きたらもう作業やってさ、なんか曲作りが生活みたいなね、んでネタ探しにレコード買いに行って膨大に買ってきてサンプリングしまくって・・・って思えば今もやってることが小説になっただけであんまり変わらないなっていうね。

 

元々外でないから「たまには外出した方がいいな」とかって思ってたんだけど、やっぱ引きこもって何か作業をしてるっていうスタイルがとことん自分にあってるんだなってのを痛感するんですよね。毎日がフローっていうか、前日のフローのバトンを次の日の俺が受け取ってまた続ける感じだから、何か中断が入るとフローが止まっちゃうじゃん?フローが続いている間はバトンを受け取るだけでいいから楽なんだよね。「よしやるか」みたいなのがない。生活するのに「よし今日も生きよう」って思わないでしょ?

 

あとまぁ文章っつーか小説って死ぬほど時間かかるからさ、これもまたいいんだよね。あと初心者だから色々と学ぶこととかがあってっつっても最近色々と読んでて所謂、エンタメとかを書くつもりが無いんだったら逆に変な書き方とかを意識したり勉強しようと思ったりしないほうがいいらしくて、今やれてる中でそれがどんだけ変なやり方でもそれを追求した方がいいらしくて、そうなるとなんか気が楽になっちゃってさ、お勉強しなくてもいいんだなって。

 

まぁお勉強用の本とかちょっとは読んだけどもう大体分かったからパラパラ読んでフィニッシュしてますね。あとまぁ文学漁りもだいぶ捗ってて、やっぱりデフォじゃ絶対読まないような流行作家とか一時期流行っててブームは過ぎたけど書き続けてる作家とかいるじゃん?所謂、有名どころって人たちだよね。んで特に60年代以降生まれたまぁなんつーのかな、上で言えばそろそろ還暦とか50歳ぐらいの人たちまでの本を読むことが多いかな。所謂若手か。

 

あとまぁウィキとかで調べて手当たり次第読んでる感じなんだけど、良くも悪くもさ、日本って私小説的な伝統があるのかもしれないのと、あとあんま政治とか絡めないじゃん?悪く言うとスケールが小さい個人の世界と内省みたいなのが多い気がするんだけど、あれなんだよね、前衛とかポストモダン文学みたいなのを色々と調べて読んでるんだけど、まぁやっぱピンチョンって代表的だと思うんだけど、今読むと全然前衛的じゃないし長いだけでつまらないよね。まぁそれだけだったらいいんだけど、政治とか社会風刺が入っちゃってると余計につまらなくなるんだよね。

 

ようはコンテキストがアメリカの社会とか消費社会へのアイロニーとかになると陳腐じゃん?政治批判とかにしても別にやってもいいんだけど、逆にそういうのって俺が元々政治学とか散々やってきたからさ、言い方悪いけどプロパーじゃない人が政治批判したってアクチュアルなものは出てこないだろって思っちゃうんだよね。あと「これは社会批判だな」とかってのが分かった時点で冷める。明らかに線形の「これ」って指すものがあると本当に小説ってつまらなくなるんだよね。

 

文字でしか伝わらないような「なんとも言えない気分になる」とかさ、なんかそういうのを求めてるわけで、アメリカ文学ってまぁ政治コンシャスだから人種がどうのとか政治がどうのとかっつーモチーフが出てきちゃって抽象度が低くなるんだよね。いや、まだ出会ってないだけであるんだろうけどデヴィッド・リンチみたいなさ、政治とかアメリカがどうのとかってのがあんまり関係ない異様なものって無いのかな?って思うんだよね。まぁあるんだろうから色々探してるんだけどね。

 

トーマス・ベルンハルトとかも面白いなとは思うんだけど、具体的なオーストリアとかさ、カトリックのナチズムとかっつー標的みたいなのがあるからそれが出てくるとつまらなくなるんだよね。何かに怒ってるんだけど何に怒ってるんだ?こいつは?みたいなのが面白いわけでさ、私怨とかが小説に出てるのって本当につまらないんだよね。だったらブログとかエッセイで良くない?ってなっちゃう。

 

別にそれはネガティヴだからいけないってことじゃなくてポジティヴな意味でもそうよ。読んでて「作者はこれが本当に好きなんだ」とかって思えちゃうともうそれは実存の投影でつまらないんだよね。もちろん違うかもしれないけどね。キャラづくりなのかもしれないけど、村上春樹の蘊蓄がつまらないのって(笑)ジャズとかクラシックの蘊蓄の部分が素じゃん?本人が好きなのを登場人物に語らせてるなってところでただですらどうでもいい蘊蓄がさらにつまらなくなるんだよね。

 

小室哲哉が好きでTMNからのファンで・・・みたいなのがあると面白いわけじゃん?もしくは本当に作者の音楽のセンスが絶望的で小室哲哉への愛を永遠と語っちゃうのとかは普通に面白いかもしれないんだけどね。それは作者の声を代弁すること全般においてつまらないよね。この映画が最高とかこの小説が最高ってのを出てくる登場人物がダイアログで永遠にそれをやってるとかクソつまらないわけよ。

 

なんかもうこれは鉄則って気がしてきたよね。作者の実存が投影されると大体つまらないものになるっていう(笑)逆に書いててつまらないと思うんだよな。俺が逆に書いてて面白いのはほぼコピペだけどさ、絶対俺がやらないこととかもう嗜んでないことをさ、煙草でも酒でも主人公なり登場人物にやらせるってことなんだよね。そっちのほうが楽しいと思うんだよな。

 

まぁあとあれね、直接的な政治批判じゃないにしても、批判したい対象の権化みたいなのが出てきて、それを面白おかしく書くってのもつまらないよね。現実世界に変な意味で繋がってるとクソつまらないんだよな。だったらノンフィクションでいいだろって思っちゃうしね。

 

ようはイデオロギー臭いのはつまらないってことだね。LGBT小説とかが流行ってるっつーけどLGBTの多様性みたいなのを描いたのがあったら絶対それつまらないよね。俺はそういうの関係なく男と乱交する話とか書いてるけど(笑)全くイデオロギーとか無いんですよ。楽しいから書くんだよね。全部とヤッてるから。JCと援交。JKと援交。少年とエッチとかね、現実でやれないから書くわけだし、かといってそれが俺の欲求をぶつけてると書いてて冷めるわけじゃん?つまんないしそんなのオナニーすればいいわけだから、楽しいものを書くべきなんだよね。

 

でもそこで安易なのがさ、なんでもありっつって人が死にまくるとかさ、人の命とかがすんげー軽い話とかになっちゃうと軽薄になるじゃん?そういうところのリアリティってのはリアルと同じなのよ。あとまぁ所謂、ドストエフスキー的な「私」のモノローグね。これはまぁ分からん、読む人にとっては俺の文学論とか小説論みたいなのを投影してるだけって思われるかもしれないけど、俺が目指してるのはポリフォニーなんですよね。だって独白ここでやっとるし(笑)

 

なんつーかフィクションであってフィクションじゃないんだよね。書いてる話とか人間がいて、それを俺は客観的に見てるんだけど、彼らが動き出したり語りだすのを待ってて、語りだしたらうざいLine通知みたいに「ぴこん!」って通知が来て、まぁ小説の場合、良い通知だからウザくないんだけど、なんか私なり出てくるキャラクターが喋ったり動いたからそこに行ってみて動いた様子を下手糞でもいいから書こうっていう感じなんだよね。だから考えるというより観察するんだよね。考えて書く小説は多分つまらんだろうな。実際に考えて書いたところとか全然生きた感じがしないから全部削除したからね。

 

なんかね、自分で読んでても自分が書いた感じがしてなくて、ってまぁそりゃコラージュがメインだからそりゃそうなんだけど(笑)人の家を覗いてるような他者観があるのがいいんだよね。だから俺は金仮面卿の横にいてそれを記録するコリンみたいな役割でさ(笑)あくまで傍観者なんだよね。あとあんまり物語とか彼らの会話に干渉したくないから言いたいことを言わせるし言ったらそれを書くし、それが本当に彼らの言葉だったら俺に削除する権限はないから残すのね。都合が悪くなったら消さないでどっかで言わせるとか使うとかにするわけ。

 

もちろんそれが成功してるかどうかは別よ。ただ俺はそういうつもりでやってるってことね。自我みたいなのがクソ邪魔だからなるべく介在させないっつースタンスね。で、あと認識の錯覚であえて自分を騙すっていうか、これはノンフィクションなんだって思って書くことね。創作じゃなくてあったことを書くドキュメントなんだよね。まぁひたすら書いてるから読み返すことはないんだけど、ただやっぱそういう意識がまだなかった初期の頃のやつっていかにもどっかからとってきてそのままペーストしました!みたいな感じでさ、浮いてて生きてないんだよね。

 

あと全くドキュメントになってない。なんかを無理に物語ろうとして失敗してんのね。某先生が言う各ジャンル1000冊読んでっていうか多分前に書いたっけ?各ジャンル1000冊読んで自分のコアみたいになるのが20冊っつってたのは多分、各ジャンルから20冊なんじゃなくて全部からの合計で20冊なんだと思うんだけど、まさに俺の小説観にぴったりあってるのが今のところダントツギャディスなんだよね。

 

あれは本当に理想的なんだよね。まぁポストモダン系の作家でギャディスの影響を受けてない人はいないと言われるぐらい影響力があるのも分かるよね。あとまぁやっぱあれか、好きか嫌いかはともかくとしてベケットとかカフカだよね。ベケットは内省を永遠と書いてるようで実存じゃないじゃん?誰が考えてるのかが分からないっていうね、あれだよね。不条理って言葉は還元主義的過ぎて全然ダメだわ。カフカ然り。ただそこにある世界っていうことだよね。それをカフカもベケットも読者も眺めることになるんだけど、眺めたところでどうにかなるわけでもなければ、何かが分かるわけでもない。物語が動くのかと言えばそんなものは最初からないっていうね。

 

あと俺は読んでても嫌なのが舞台で言うところのト書きなんですよ。風景の描写ね。あれほどいらないものはない。しかも最悪な場合、風景の描写でポエムみたいなのを始めちゃって作者が言葉に酔ってるのが丸々分かるような言葉のオナニーが永遠と続くのってあるじゃん?いや、どれだけお前みたいなもんが考えたところで言葉は出尽くしてるから全部クリシェだからその言葉でオナニーすんのやめろって思っちゃうんだよね(笑)

 

少ない俺の文学の知識で言ってもギャディスもカフカもベケットも風景描写で文字の陶酔するようなことはないでしょ。あくまで最小限の記述だよね。記述が一番いい。「テーブル越しに喋っている」とか距離感で言えば「隣に座って喋っている」とかね、そこでバーの内装の細かい描写とかさ、ラブホの描写とかいらないんだよね。もしくは最初にちょっと書くだけでいい。頼むからやめてくれ。それだけで本が分厚くなるだけは勘弁してほしい(笑)

 

あとまぁあれだわ、これは小説の中でも書いててまぁ俺の独白でもあるんだけどってまぁたまに独白が混ざるぐらいだったらセーフにしてる緩いルールなんだけど(笑)プルーストって超絶的に凡才なのね。天才だと勘違いして何かあるんだと思って読んでたら何にもないじゃん。たまに数打てば当たるで「キラッ」としたセンテンスがあったりするけど9割以上がどうでもいい話と自己陶酔だよね。しかも全然面白くない。

 

あーしまった、なんかこれも小説の中で書いた気がするけど減るもんじゃないしいや大した話じゃないし(笑)前衛ってさ、例えばジョン・ケージとかストックハウゼンの凄さってあの時代にああいうことを最初にやったから凄いんであって、じゃあストックハウゼンのエレクトロニクス作品が現代のわれわれの耳に鑑賞に堪えうるものなのか?ってつまらないよね。もっと良いのいっぱいあるわっていう。ケージ然り。ケージに至っては方法論が凄いだけで音楽作品的に鑑賞できるものなんて少ないわけでさ、でもまぁ歴史的に凄いから偉人なんだけど、文学って歴史的にプルーストとかジョイスもあんなのを書いた人がいなかったって意味では凄かったにせよ、今の時代に読んで凄いか?っつーともっと気が狂った文章とかガチのキチガイが書いた文章とかってネットで読めるからさ、クソつまらなくなるよね。それでもまぁフィネガンズウェイクの電波っぷりは俺は好きなんだけどね。ジョイスは好きだけど同じウォール伝みたいな浮かんだことをガンガン書いちゃう形式でもプルーストはクソつまらない。

 

方法論的に使ったウルフは面白いよね。上手いし。で、なんか前衛の歴史が古いっつーかさ、なんだろうね、音楽の場合、ストリーミングで聴けたり輸入盤で聴いちゃえばすぐ分かるから情報の伝達が早いのかな。でも文学の場合、大部なものを読まなきゃいけないから前衛の歴史が古いんだよね。ピンチョンとかポストモダン文学なんて60年代とかの産物なわけで、もう半世紀経ってるわけよ。

 

でも文学研究者を除いて海外文学を原書で読む人はあんまりいないから、ただですらあんまり売れない海外の現代作家の作品が全然翻訳されないから、だからビッグネームの前衛とかポストモダン文学しか市場に出回らなかったり、バブルの時期に景気が良かったからバロウズとかを出せたんだろうけど今の出版不況じゃ相当厳しいだろうなっていう感じで、そういう流通に依存しちゃってる結果、全然概念が更新されないんだよね。

 

あとはまぁ蛸壷化だよね。翻訳が読みづらいってのもあるんだけどみんな日本の現代作家ばっか読んでるからそういうのを読んだ人がまたさらに書くから似たものがどんどん量産されてるみたいな感じなんだよね。だから驚くぐらい違う小説なのに作風とか舞台が同じだったりするじゃん?でもまぁ体感だけど書き続けている作家ほどやっぱ尋常じゃない量読んでるよね。海外作家とかのも当たり前に読んだうえでエンタメ小説とかを書いてる感じがある。

 

だからまぁ作家って尋常じゃねーなって思うんだよね。書く量とインプットの量とまぁぶっちゃけ学者とかアカデミシャンとかと変わらないよね。publish or perishの世界だからね。優れた研究は独自研究じゃないといけないのがデフォで小説の世界も必ずしも同じじゃないにしてもまぁやっぱオリジナリティなんて無いとは思うけど、でもまぁそれなりのオリジナリティが無いとダメなんだよね。だからなんか作家になりたい!とかってよくあるじゃん?ミュージシャンになりたい!とか俳優になりたい!とかと同じ感じで小説家になりたい!ってのがあるんだけどって別にミュージシャンとか俳優をバカにするわけじゃないんだけど、仮に学者になりたい!って思ったら多分、大体会社務めしてたら無理だよね。

 

まずその分野のことを始まりから終わりまで舐めるように勉強しないといけないし、最低英語は読めないといけないし、当然、学位も博士取らなきゃいけないから「なりたいんです!」みたいなノリで言えることじゃないんだよね。でも小説家になるのに学位はいらないんだけど、でも実質的に書き続けてる作家とかを見てると研究者レベルかそれ以上のインプットアウトプットをしてるから「なりたいんです!」っつってなれるもんじゃないってのがすぐ分かるよね。でもなんかお手軽になれそうなイメージだけが先行してるのと、あとやたら文学とか小説家みたいなのをロマン化してる漫画とか映画とかのメディアのおかげで「俺も書こうかな」とかってなっちゃうんだよね。

 

まぁ勝手に書けばいいんだけど無理ですよ。マジで。天才でもそれなりの時間がかかるから、指標はやっぱ研究者になるってことと凄く似てるんだよね。そんぐらいの量を古典から現代から読み漁って研究して実際に書いてみて小説家のように考えて生活をするってことをやってないと難しい。研究者だってそうでしょ?研究のことばっか考えて研究者のように考えて生活するってのが習慣化してるわけだからね。そういう人が学者になれるんであって、運で学者になれる人ってあんまりいないんじゃないの?ポストとかって話になると運もあるんだろうけどそれ以前の段階はえげつない量の勉強だよね。

 

誰でもなれる幻想がどっから産まれたのか分からないけど罪作りだよね。いや、俺も研究者になろうとしてましたからね、一時期、だからまぁ「だろうな」っていうイメージで言ってるんじゃないんですよ。研究者としてやっていくエゲつなさってのと作家としてやっていくえげつなさが凄くダブるってことなんだよね。消える作家ってのは1つのアイデアをちょっと広げて中編ぐらいにしたらウケましたっつーんでパッと出るんだけど、研究者の下地みたいな基盤がないからすぐ消えるわけでしょ。体力がある作家ってアカデミシャンの体力と似てるんだよね。

 

で、全ての研究者とか作家に言えることじゃないんだけど環境的アドバンテージってのがあってさ、学費払うとかさ、生活費払うってことだけでてんてこまいになってるとやっぱ無理ゲーなんだよね。才能云々以前にそんなバカみたいな量の研究なり本を読んでしかも出力するなんつー尋常じゃない時間と労力を必要とすることが片手間とか開いている時間にできるわけがない。

 

よくミュージシャンになれるのは実家が裕福なやつだ的なルサンチマンってあるけど、作家も似たようなもんだよね。中にはどこかに勤務しながらやってる人もいるしまぁ専業作家なんてあんまりいないらしいから何かしらのバイト的なことはやってるにしても、下地作りの段階で労働とか日々の雑事に追われて何も準備ができなかったって人はあんまりいないと思うんだよね。すんげー強固な基盤を築き上げられたから兼業でもやっていける人がいるんであって、下地作りは尋常じゃないんだよね。

 

でもまぁ時間があってもネトゲーとかしかやらないやつもいるから(笑)別に湯水のごとく時間を使えるってだけじゃどうにもならなくて、そこにdisciplineが必要になるんだよね。俺が今やれてるのはずーっと学問をやり続けてきててそれが生活の中心だったからだと思うんだよね。それと創作然り。何かしらのアウトプットが無いと精神が不安定になったりなんかやってないとだめだからっつーので、今は学問的なインプットと音楽でやってたようなアウトプットが統合されてる感じなんだよね。

 

で、何千時間何万時間かかるのは当然という感覚が学問をやることで当たり前になってるから、その途方も無さにビビらないどころか、やりたいことがなくなってきているから逆にそんな何万時間も時間を必要とするものを発見できて「よっしゃ!」って感じなんだよね。頭使えてアウトプットもできるってこれほど楽しいことないっすよ。マジで。

 

あとだんだん書き方分かるようになるとサンプリング元が何も書かれた文章とか小説に限らなくなるでしょ?映画のあの部分の変な感じをそのまま使っちまおうとかさ、外で誰かの会話盗み聞きしてて内容が無い会話なんだけど妙にテンポが良くて面白かった会話とかそのまま使えるんだよね。まさに人間サンプラーですよ。全部サンプリングできちゃう。

 

だから外に出たときとかは家に帰ってきて得た素材とかさ、あと単純にネタとして仕入れてきた膨大な本とかさ、あといくつか思いついてたのを書いてるやつに繋げていくとそれが有機体みたいに動き出してどんどん進化していく!ってのが楽しくてしょうがないんだよね。なんかこれが永遠に続けばなーって思うからやっぱ何百万文字のスケールにしたいってのがある。頭がそのつもりだと頑張るじゃん?今なんか全然足りないわけだからね。あと方法とかやってなかったりまだできないこともあるから、そういうことができるようになったらまた組み込んでいくってことも可能になるから、だからまぁそれを永遠に続けたいってのがあるよね。プルーストには幻滅したけどあいつの生活形態はいいなぁーって思うわ(笑)

 

ってことで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。