衒示消費としての超訳ニーチェ。

レコードって価値を失ったのかね?いや、ユニオンに売ったんだけどさ、伝説的なレアなラテンジャズのLPとか1000円ちょっとだったね。まぁカット盤だけど。前に書いたよね。帰ってきてから最初にユニオンに売った時査定が低いんで「なんとかならないですかね?」って電話したら元某店の店長さんが出てくれてまぁなんか全体的にやっぱ値段が下がってるってことなんだけどさ、それはレア盤とかに関してもそうなのかなぁーとかって思って。1000円ぐらいで売ってたものが700円とからしいんだよね。これって買う側からみたら最高なんだけどね。いや、でもまぁユニオンは本当に良心的でいいよね。ちゃんとやってるのが分かるからあんま文句言う気になれないっつーかまぁこれがようは信用ってことだよね。


まぁいいや。それはともかくさ、レコードの価値は分からんけど、最近エマ・ワトソンが好きでっつーかあのおっぱいが好きでハリーポッターとか2倍速で見てるんだよね。いや、見てなかったシリーズね。2005年ぐらいのやつかな。アズカバンの後のやつから見てなくて、まぁ乳が出始めるのがあの頃だからちょうどいい時期なんだけどね。


んでJKローリングって電子出版とかにすげー批判的って言うのを見たんだけどさ、なんかでもまぁこういう人っているっつーか俺もそうなんだけど、いや、掲示板の書き込みとかでも書いてあったけど、これって「やっぱ音楽はレコードで聞かなきゃな」って言ってる感じの雰囲気と同じ感じがするっていうかさ、俺はまぁmp3なんて最悪だ!って思ってたけど、まぁその便利さっつーかさ、まぁそれをCDRに焼いてウォークマンで聴いてるけどそれって元があるコピーじゃん?だから乱暴に扱えるしさ、あくまでまぁウォークマン用っつーかCDで聞く用として焼いていて、だからまぁ基本的にmp3っつーかデータを聞いているんだよねってそれはデジタルって意味じゃなくてね、CDを聞いてるというよりかはもうリスニングの感覚がmp3的ってことね。


実際、CDとかすんげーかさばるしCDRなんてのもおぞましいぐらいの量になるからやっぱデータって便利だよね。外部HDRに大量に入ってるけどどんくらいあるのか分からないけどさ、もう聞けないもんね。把握できないっつーかなんつーかもう自分のものっていうよりかはライブラリ感覚なんだよね。それで言えばYou Tubeとかでも見れたりするじゃん?っつーか聞けたりするじゃん?だからまぁアーカイブだよね。本当に。


データをどこから取り出すのか?ってのが問題なんであって、それがCDであるかレコードであるか?なんて物質的な問題でどうでもいいんだよね。こんなレコード主義者の俺ですらmp3になっちゃうんだから怖いよね。便利さって。まぁそれでもやっぱレコードじゃなきゃ聞こうと思わない類のものってあるんだけど、それはまぁ大抵モンドみたいなやつばっかだよね。まぁあんまもう聞かないけど。一時期本当に聞き過ぎたんだよね。で、電子出版というか本がデータになるってことになったらさ、それこそスペース的には助かるよね。でもなんか前にも書いたけどさ、本ってなんか迫力あるじゃん?


レコードもそうだけど「ぜーんぶこれレコードです!」みたいなさ、スネイプ先生の家みたいな迫力っつーのかな?まぁそんなに多いほうじゃないとは思うけど、なんつーか本に囲まれる生活みたいなビジョンってあるじゃん?それと同じくレコードに囲まれる生活みたいな。でもこれって物質的でなおかつ観念的だよね。音楽とか本という意味で言えば別にデータ化できるんだけど書籍とかレコードというフォーマットにこだわってるっつーか結局はやっぱフェティシズムなんじゃないか?って思うんだよね。本の匂いとか触り心地とかさ、レコード然りだけどね。


でも電子世代から見たらこんなのバカバカしく見えるんだろうな。まぁいつの時代も好き者はいるからレコード集めたり本を集めたりする人っているとは思うけどさ、でもなんかやっぱ蓄積してくると嫌なんだよね。俺は。読まないやつとか大量にあるからね。一度読めば十分なやつとか結構あるんだよね。それでもまぁ本棚の迫力があるから置いておくみたいな、それってもう装飾じゃん?レコードも装飾だよね。DJがレコード回してるのってかっこいいけど、mp3プレイヤーでDJやるってかっこよくないじゃん?でも時代的にはそっちなんだよね。


いちいちガラガラなんて持っていく必要ないしさ、いや、あるんでしょ?タンテみたいなインターフェースを再現してるやつでCDJではそういうのがあったけどUSB接続でパソコンでDJできるみたいな、ようはパソコンに入ってるmp3データをタンテのインターフェースを再現しているやつに移せるんだよね。それでDJやれれば物理的な制約無くなるじゃん?車で来ないと運べないような量のレコードっつーか音源をラップトップ一台で持ってこれるわけだからね。でもまぁレコードのかっこよさってないじゃん?でもそんなの音楽という点から見ればナンセンスなことでどうでもいいことじゃん?まぁ俺が言いたいのは装飾としてのレコードね。オルガンバーとかああいう感じのやつらってそういうなんつーかレアレコード見せびらかしカルチャーみたいなのがあって大嫌いだったんだけどさ、データ化ってそういうのを一気に無くすよね。それってまぁ良い事だと思うんだけどね。


レア度とか関係無しにまぁ別によい音楽だけをかけてればいいってことで、あとはmp3ってことで手に入りやすかったりして経済的な差が音源の量の差にならないじゃん?一曲100円とかならさ、使える曲をダイレクトに買っていけばまぁ相当買えるよね。You Tubeに高音質で上がってたレアクラブトラックとかをmp3変換して回したりもできるわけでanything goesだよなぁー。本当に。


で、本なんだけどさ、昔の東大生が解析概論を小脇に抱えるみたいなのが東大生としてのステータスだったみたいな話があるけどさ、んであと80年代だと構造と力を小脇に抱えてナンパみたいなさ、これってまぁ両者のレベルの違いはあれど本というものが知を表すアイコンというか装飾物として機能してるってことだよね。詐欺師のサイモンもこれを大いに利用してたな。分厚い数学と物理学の本を小脇に抱えて何かを書いているってまぁスタイルが古典的過ぎて引っかかるほうもあれなんだけどさ、でもこういうのって通用しなくなるよね。全部キンドルとかに入っちゃえばなんつーか「解析概論」とかって書いてないわけじゃん?


あとはGEBにしてもあの分厚さとかさ、カフェとかで読んでれば目立つじゃん?実際、Flickerみたいなサイトの写真で結構あるんだよね。「知のファンタジー」みたいなタイトルでGEBの本の上にメガネが置かれていて横にコーヒーがあってまぁ場所はカフェなんだけどさ、これもまぁスタイルだよね。カフェで分厚い小難しい本を読むっていう。まぁあれ自体はすんげー頭が良い人が書いててさ、鬼分かりやすいんだけどね。やっぱ本当に頭が良い人が書く本は読みやすいし楽しいよね。やっぱポストモダン系のやつらとか本当にクソだったなって思うんだよね。そんなに頭が良くないから難解にしか書けなかったんだろうっていうさ、特にこういう理系の天才みたいな人と2流の哲学者との差って凄いよね。フランス語訳が出た時に当時ガタリが雑誌に好意的なレビューを書いたらしいんだけどね。まぁそれはともかく本当に理系って知的に信用できるよね。逆を言えば文系っつーか人文系が胡散臭過ぎるってのがあるんだけどね。まぁ全員じゃないけども。


まぁそういうことなのよ。え?どういうことなのか?って?まぁあれよ、そのようはGEBをカフェで読むみたいなスタイルがつまりは見せびらかしにならなくなるって意味で本というものが持っている知的な装飾品みたいな感じが無くなるってことね。なんかさ「あらー立派な本だねぇー!」みたいなさ、悪食大全とかさ、あれって元々ゴシップレベルのライターが書いたペーパーバックの本なんだけど、邦訳は立派な装丁をしてさ、分厚い辞書みたいな体裁にして偉そうな学術書みたいに仕立て上げてるんだけど、こういう手法が一切使えなくなるよね。これってすげー悪しきことだと思うんだよね。


無駄に豪華にして低俗なレベルのものを偉そうに見せるとかって最悪じゃん?いや、なんかあのさ、怖い話とかばっか出してるような低俗な文庫本のシリーズとかあるじゃん?ああいうので悪食大全とかが出てる分にはいいんだけど、立派な本としてそういうレベルの本を過剰包装みたいなのをして価値をつけるとかってその本が持ってる知的な装飾感ってのを最大限に利用したトリックだと思うんだよね。


で、まぁ詐欺師が小脇に物理学と数学の本を抱えることでも、見せびらかしたいやつが知的な装飾として難しそうな本を小脇に抱えることでもなんでもいいんだけど、そういうのが無くなるって俺はいいと思うなって無くなるとは限らないけどすんげードライな意味でのただの文字というデータみたいなさ、ようは読むのって中身なんだからそれでいいわけじゃん?アクセサリじゃないからね。あとは蔵書を自慢するとかも馬鹿げてるからそういうのが意味なくなるってのもいいよね。キンドルに1万冊入ってますって言ってもそれはそいつが言わなきゃ分からないじゃん?


でも家に蔵書が一万冊ありますとかいってさ、んで本だけの部屋があるみたいなさ、なんかそういう部屋があるみたいなことがかっこいいっつーかつまりは装飾だよね。寄贈で本が増えるのはしょうがないことだとは思うけどでも本って凄く危険な存在だよね。あればあるほど自分があたかも賢くなったように思えてきちゃうっつーかさ、凄く勘違いをしやすいっていうか、俺が言いたいのはつまりはヴェヴレン的な衒示消費みたいなことなのね。見せびらかしのアイコンとしてのレコードとか本みたいなね、そういうのが通用しなくなる世の中って健全でいいと思うなと思って。


だから俺はデータ化って凄くいいと思うなって思うね。まぁさっきからも書くように別にデータ化が進んだ所で衒示消費が無くなるわけではないとは思うんだけどね。ただ本当にあれはダメだよ。資本論を小脇に抱えていればかっこよかったとかっていうああいう本が装飾として使われるのって本当に良くないっつーか個人的に大嫌いだからそういうのを抹殺したくてさ、で、キンドルで読むのがデフォみたいになったらそういうのって時代遅れになるからいいなぁーとか思ったわけね。


超訳ニーチェとかも凄まじい衆愚観を抱かざるを得ないような本なのは言うまでもないけどさ、あれもなんか偉そうな感じの分厚い体裁で出版されてるじゃん?で、中身見てみると池田大作の本みたいにデカデカと都合のいいニーチェ自己啓発っぽいところだけを抜いてきたような文が本のページの真ん中に「ドン!」ってあるだけでほとんどのページは余白だらけじゃん?でもああいうのを読むアホは分厚さとか「ニーチェ」ってことでなんか分かったような気になるんだろうね。馬鹿を相手に出しているって点でまぁビジネス的には大成功だよね。あれ。そういうの分かってる人が出してそうだもんね。だから全然著者が悪いとは思えなくて。むしろ賢いなっていう。


衆愚観があるからこそああいう本を作れるんだなって感心しちゃうぐらいだよね。で、二巻セットだかの大げさなケースに入ってる超訳ニーチェとかも出ててもう唖然としたね。出版界終わってるなっていう。あんなのが本になるなら便所の落書きだって本になるだろっていう。超訳ニーチェキンドルとかで読んだらスカスカじゃん?あの分厚さとか立派な本の感じが無いからさ、超訳ニーチェ効果無いよね。余白だらけなんだけど、んでも分厚い本を読んでるみたいな自己満足感ってキンドルだと得られないじゃん?そういう本っていうフォーマットを利用したえげつないやり方とかも出来なくなるって意味で電子化っていいなぁーって最近思うようになったねっつーか特に最近出てる酷い出版物の数々を見てると本当にそう思うね。


雑誌みたいなレベルの本が「話題の本!」とかって出てたりするんだもんね。で、それが結構売れてたりするんだよね。それこそ雑誌レベルの本だったらどうせ行き先はブックオフなんだからさ、だったらまぁ電子書籍で十分だよね。雑誌感覚で読んだら捨てるかまぁキンドルに置いておいても別にスペースそんなに取らないだろうから問題ないっていう。


本当にあの日本のスカスカ本って何なんだろうな?って思うよね。上がやたら空いてたりさ、1ページに対する文字数が極端に少なかったり文字が大き過ぎたりさ、あとはやたら強調するところは太字で書かれてるみたいな、本の作り自体にインテリジェンスの欠片も感じないんだよね。まぁそんな本買わなくてもいいし、くだらないトピックでも面白そうだったらああいうのって立ち読みで10分ぐらいで読めるからいいんだけどね。一時期大量生産されてた苫米地さんの本とかもそういうの多かったよねぇー。本当に。余白だらけの本なのね。あと内容が他と一緒っていう。


で、超訳ニーチェなんだけどさ、あのぐらいがちょうどサラリーマンみたいな人達に合ってるレベルだとしたらもうサラリーマン=アホって図式が成り立っちゃうよな。まぁ全てのサラリーマンがあれを読んでるわけではないんだけど、でも何十万部だったか結構な部数売り上げてるんだよね。で、若い人達にも人気があるとか。一億総白痴化ですな。こりゃ。いや、まぁこれはジョーダンですけどね。


ってことで今日はこんな感じでいいかね。まぁ前にも書いたけど超訳ニーチェのアマゾンのレビューにはちゃんと「こんなのクソでしょ」ってまぁそんな言い方はしてないけど星一個みたいな批判が多く見られて安心したんだけどね。でもまぁ売れているってのは事実だからまぁ悲しいっつっちゃー悲しいよね。



あんなの買うぐらいだったらこういうセレクション読めばいいのになぁー。なんでこういう本がすでにあるのに超訳じゃないと売れないんだろうか?白痴化してるのと、あとそもそもニーチェ読むつもりじゃないんだろうね。ああいう輩は。分厚さと「ニーチェ」っていう知的な響きだけで買ってるんだろうな。本当に馬鹿としかいいようがない。「そういう人もいるんだから批判しなくてもいいじゃん!」とかって言われても俺は批判するよ。あんなのがいいわけないんだから。ニーチェを馬鹿にしないでほしいよね。