naoさんへの返信。2。

nao 2014/11/01 03:22


なんでしょう。やっぱり数学は万能って感じしますよね。まあでも僕は真理の追求というよりはどっちかというとドラッグやる感覚でやってるんじゃないかっていう。まあ社会とか政治とかっていう現実から目を背けて数学というイデアに逃げるといいますか。数学も真理の追求ですからそりゃある意味矛盾したことなんですが、それでもまあイデア的な真理と社会とか政治といった現実の真理とはまた違うだろうと思ってるんですけどね。まあその「で?」的な虚しさはたまにありますがやっぱりまだやりはじめの段階ですので知りたいっていうまあナイーブさはありますね。


まあ僕は結局はそのエッシャーの「言葉」的なものが本質だと思います。違いとかがあるように見えてその違いはないっていう。仏教的な悟り?とかもそういうことを言ってるのかはよく分からないですけどまあそういうのを視覚化するとエッシャーの「言葉」のようなものといいますか。本質的なものはどれも一緒なので区別はつかないといいますか。究極のイデア的なものかもしれません。イデアイデアみたいな。ボーアという物理学者はあの世(暗在系)について言及しているようですが(そんなに詳しく調べたりはしてないですが、)あの世には空間や時間もなく一体という、私はあなたであり石はジェット機であり過去は未来でありという、ここにも本質的なものがある気がします。あの世に本質があるということでなくてその結局は一緒っていうんですかね。


まあ数学は鏡だらけの空間というのは面白い例えだなと思いました。その鏡の反射的なものがmorphismとかrepresentationとかそういうものでその目に見えない光がhidden realityといいますか、でもその鏡の反射だらけってことでいえば結局その同一性みたいなことを通して結局数学全体が繋がっているってことになってまあその結局は全部同じっていうんですかね?まああとはスペクトル?みたいなもので気づかぬうちに変化している連続性といいますか。このまあ連続体的なものって不思議ですよね。やっぱり。うーん、局所的にみれば一緒でも大局的にみれば違うってことなんですが、これも同じっていえるんじゃないかっていうかだんだんなんか言ってることが怪しくなってきた気もするんですが。


不思議なのはそのイデア的な世界にあるアプリオリなパターンですよね。そのパターンがどういうものかというhow的なことは分かってもなんでそんなパターンがあるかって、そのパターンがあるからとしか分からないっていうwhy的なものは追求できないっていうその不思議さなんですよね。で、そのアプリオリな部分に美しさがあるっていう。論理もまあある意味アプリオリなものなんだと思いますけどたとえば三段論法に美しさを感じるっていう数学者もいますよね。まあ僕はやっぱりその数学の大局的、壮大な数学自体というか数学全体に美しさを感じるんですが。まあ地図の例えでいえば住宅街地図見るような局所的な数学には一切興味ない。どの地図も結局万能ではないが(この辺位相とか多様体と通じる部分がありますしなんかゲーデル的なものに通じるものが歩きもします。完全に素人感がえですが。


うーん、位相的なものって論理というかメタ数学的なもので重要な役割果たす気がします。)人工衛星的なものは万能に限りなく近いので人工衛星的なラングランズプログラム的なものに希望がありますね。ところで地図見るときもたとえば標識なんかがありますが、あれでどこ通れば一番近道か考えるかとかって重要ですが、それって抽象的な「距離」の計算だと思います。たとえば単純な距離の計算も必要ですが渋滞や道路の広さも考えたりあとは最短でいけても右折や左折が多いといいルートとはいえないわけで、まあこういうのをずっとやってきたわけでこれっていま思えば抽象的な計算ですよね、こういうにが数学やる上で役立ってると思うんです。(だからある意味で数学は計算とも言えると思うですが抽象的な計算であり、多分それは本質的なものかそれに近いものであり、一般に言われる計算的なもの、たとえば数にしろ数式にしろあれもあくまでも一種の「地図」であり本質じゃない。まあ本当に表現に過ぎないわけです。


まあ数学における表現representationはまた別ですが。あれは表現の中でも特殊な表現でしょう。まあ互いに鏡なのでというか互いにイデア的なものだからでしょう。それこそ数式とかはまあ人間が作ったものでイデア的ではないですよね。他の芸術の表現とかにしても人間が作ったものなので表現される側が先にあるっていうような順序的なものがある。イデアには順序とかなくまあイデアの世界はそれこそ時間的なものがないんでしょう。)まあでも


>「多分、マンデルブロとかと同じで何でも幾何的に考えられるっていう凄い脳を持ってるんだと思いますよ。」


当然そんな脳持ってません(笑)まあ才能あるんじゃないかって思うことは時折ありますよ(笑)これは正直に告白するしかない。数学の知識欲があるとか数学がガチで好きとかっていうその部分もある意味才能なんじゃないかって思ってますが。でも純粋に数学やってるはずなのになんか見せびらかす部分があるんですよね。なんかやっぱりどこかでその凄いとか思ってる自惚れてる部分もあるんでしょうね。俺はこんなの知ってるんだぞっていうことなのか数学の話を数学に興味ない人にまでして、ましてやこんな本も読んでるとか言っちゃったりして、この一方的な見せびらかしみたいなことやっちゃいますね。すごくそれは嫌なんですけどやっちゃう。


いや、あくまで素人考えということで。まあ結局こういうことをあーだこーだ考えてるだけで楽しいっていう。まあそれでもそれがオカルト的なことだったらやっぱり意味ないと思うわけで、数学だとちゃんと真理的なものを追求できて美しさとかがあったり驚き、感動とかのワクワク感とかあったりして、従来の哲学だけでのあーだこーだはすげー虚しいし、それが政治とか社会とかの真理の追求となるとワクワクとか当然ないわけで、まあそれも数学が好きな理由の一つですね。


僕も基本は学問にせよゲームにせよ音楽にせよドラッグ感覚ですね。現実があまりに理想とかけ離れているのでイデアの世界に逃げ込みたいというような現実逃避でやってるというのは昔からそういう感じですね。政治哲学的に言えば善い社会のイデアはありますし、僕もそれはあると思っていますが、現実でそれが達成可能なのか?っていうのは全然別問題で、まぁようはただの理想主義とかユートピアニズムってことになっちゃうんですよね。まぁあくまで僕の哲学的なスタンスではあるんですが、基本的にイデアは一つなので数学のイデアと「善い」ということのイデアが別だとは思わないんですよね。もちろん個々の事柄に対してイデアが対応するわけですが、僕が言いたいのはイデア界みたいなのは一つしかないということですね。事柄に関してその数だけ様々なジャンルのイデアがあるとは思わないっていうことです。宗教で言うところの一神教なのか多神教なのかみたいな問題で神学とか形而上学の話なのでことさらこれに関して特に言及する必要もないんですけど書き始めたら止まらなくなってしまってついつい書いてしまいました。なのであまり気にしないでください(笑)


でもnaoさんがおっしゃる「究極のイデア」の話を見る限り多分、僕とnaoさんのイデア観は同じだと思いますね。ボーアの話が出ていますけどあの時代の物理学者の哲学感は凄く面白いですよ!っていうか肝心の同じ時代の哲学者達よりよっぽど哲学してるっていう感じですね。ハイゼンベルグにせよシュレーディンガーにせよ思索的な文章をいくつも残してますよね。あとディラックなんかも哲学的ですね。ディラックの海みたいな概念はただ科学をやってるだけでは出てこない発想だと思うんですよね。


ところで僕が出した鏡の例えなんですが、僕が書いてないことまで解釈していただけてとても嬉しいです!「その鏡の反射的なものがmorphismとかrepresentationとかそういうものでその目に見えない光がhidden realityといいますか、でもその鏡の反射だらけってことでいえば結局その同一性みたいなことを通して結局数学全体が繋がっているってことになってまあその結局は全部同じっていうんですかね?」ってまさしくこれです!実質的に写像や反射で表せないものって無いんですよ。そういった対応関係の相互的な繋がりがマクロにもミクロにも存在するということですね。仏教で言うところの縁起がまさにそれです。仏教の場合、オントロジー的には「結局、全部同じ」というのを「無」と定義しますね。これは人間が「有」なものばかりに気をとられるので、凄く良い戒めとしてのオントロジーだと思うんですよね。これは存在論なんであってニヒリズムとは違うんですよね。全部は無だっていうとニヒリズムっぽく聞こえますがニヒリズムとは無縁ですね。むしろニヒリズムというのは人間の心から生起するものですからね。


で、連続性の話なんですが、むしろそういった動的なダイナミズムありきで「全て同じ」と言えるんです。なのでその「同じ」というオントロジーは決して静的ではありません。むしろ動的なものが介在しないと全体性は存在し得ないですからね。仏教的なオントロジーというのはそういった動的な無というのを述べているんですよね。まさしく諸行無常というやつなんですが、これに対して全体性という観点を持ってくるとある種の超越論的な話にもなってしまうんですが、でも卑近な例としては数学の大数の法則がありますね。局所的に見れば色々変化しているように見えるかもしれないけど大局的に見れば法則に支配されているということですね。数学の全体性ってまさしくこれなんですよ。フラクタルというのはそれの最たるものですね。あと極限定理系の話全般は基本これですね。


ところで「うーん、位相的なものって論理というかメタ数学的なもので重要な役割果たす気がします」ってさすがとしか言いようがありませんね!まさにそうなんです。圏論やTopological Quantum Field Theoryなんかはメタ概念だらけなんですよ。どちらも位相と論理が重要な役割を果たします。それは物理的なものに関してもメタ的に何かを表すということが多いですし、あとはcomputation系の話はざっくり言ってしまえばほぼメタ概念に関するものだと思うんですよね。特にゲーデルチューリングが取り組んでいたものというのはメタ数学なんですよね。あとメタ的なもので言うとラムダ計算ですね。プログラミングなんかで使われるんでややこしいのか?と思っていたら実際の型はほぼ圏論みたいな感じで恐ろしくエレガントで一気に魅了されましたね。そんなに深くはやってないんですが、また気が向いたらやりだすと思います(笑)


naoさんの地図の話はそれこそが本質的な計算というやつなんだ!って言いたくなるぐらいな感じですよ。一般的に計算というと数がどうのとか式がどうのって話ばっかな感じがしますが、本当の数学の計算というのはそういった抽象的なものなんですよ。数学と言うと紙とペンって感じがしますけど、実際のところ優れた数学者というのは頭でそういった抽象的な計算をしていると思いますね。極論ですが、僕は式を使った計算とか式の変形とかどうでもいいと思ってるんですよ。あんなものはただの言語的な問題なんであって本質的じゃないですよね。ただのパズルというかなんというかまぁ本当に興味ないです。テキストとかに載ってる練習問題とかも「こんなのやって何になるわけ?」って思うんですよね。まぁそれ言い出すと学校でやる数学の勉強みたいなのの大半がほとんど意味無いみたいなことになるんで過激すぎる話ではあるんですが、いつも書くように僕は「とりあえず手を動かす」みたいなのが大嫌いなので、それに関しては反感を覚えるんですよね。手を動かすよりボーッとして考えることのほうがよっぽど大事だろ!って思うんですが、まぁそれはスタイルの問題なので手を動かすのは駄目だ!とは思いませんけどね。


例えばnaoさんが地図を見ながら自然と抽象的な計算を行っているときってそれを具体的に数式にして計算したりしてるわけじゃないですよね。なんでいちいち数式にしなきゃいけないの?って思うぐらいなんですよ。ただまぁ数式が無いと分からない概念も多いし、人間が使う言語よりかはよっぽど優れているので、数式自体が駄目だと思ってるわけではないんですけどね。


あ、んで数学に興味が無い人にまで数学の話をしてしまうって凄く分かりますよ。多分、そういう話を出来る人がいないから共有したくなるっていうことなんだと思いますよ。「俺凄いだろ」的な見せびらかしならすぐに反省をするべきですが、「こういうのやってるんだ!」っていうことを言いたいだけなら無邪気な子供と一緒だと思うんですよ。子供が積み木とかやって親に「これできたよー!」って見せる感じっていうんですかね。数学みたいなものをやる上では無邪気であるに越したことないと思うんですよ。それは幼稚なのではなくてそれだけ数学が好きなんだっていう表れなんだと思いますよ。僕も全く同じなのでそれは凄く分かるんですよ(笑)


素人考えからちゃんと数学をやるというところまで行くにはやっぱり勉強しかないですよね。まぁ勉強って言葉は好きじゃないんですが、やはり押さえておかなきゃいけない知識ってのは押さえて、その上で考えるってことですよね。それさえあれば素人考えではなくなるんですよ。まぁ僕もnaoさんと同じで分からなかったときに素人考えで色々と考えてて、んで色々とやってみて全部その素人考えは合っていたんで、あながちそれって素人考えでもないんですよね。でもまぁやはり数学的厳密性は必要なので、そこはやはり学問的な作法を身につけるべきだと思いますね。僕が熱心になるのも考えていることをただの素人考えにしたくないんで知識を増やすことに情熱を燃やすことが出来るって感じですね。考えることが好きだったり常に何かを考えているような人間の場合、知識って必須ですよね。これって前にここで書き込みをくださった人も言っていたことなんですが、ちゃんとした知識が無いとただのトンデモになってしまいますからね。それだと考えていること自体の意味というか価値が無くなってしまいますからね。ただのオカルトについて思索しているのと同じレベルになってしまいます。だからまぁなんていうんですかね、disciplineっていうんですかね。この辺は筋トレとかと同じような感じですよね。体作りならぬ頭作りというかなんというか。


まぁでも本当に数学って救いですよね。知識が増えれば増えるほど数学的直感とか数学的理解の精度も上がりますし、これ以上遣り甲斐のあるものはないんじゃないか?ってぐらいですね。