ぶっきょう勉強中さんとnaoさんへの返信。

神木ミックスよろしくね。


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というわけでぶっきょう勉強中さんとnaoさんへの返信を。

ぶっきょう勉強中 2014/11/02 23:59


仏教の話がでてきましたけど、悟りの話とかって理屈で知ったとこで意味ないみたいなことって言われてないですか?悟りっぽい体験って言葉にされたことは後付で、まず体験があるじゃないですか。仏教自体が「悟りがある」って言語ゲームをやってるだけっちゃそうなんだろうけど、実際の体験談を聞いてみるとどうも言葉で理解した気になっていいもんじゃなさそうではありそうなんですよ。頭で主客未分とかの概念を理解したと思ったとしても、実感としてその状態を体験してないじゃないですか。ことに仏教に関してはその「全てが自分と一つになっていてもはや自分というものはない」的な状態を解らないと、何もわかったことにはならないと思います。


最近は瞑想に関する論文もかなりの勢いで実際ブームなんでしょうけどでてきてて、線条体とか前頭葉がでかくなったセルフコントロールの力がついたりいろいろ証拠は出てきているようです。だから教義を識ることよりも坐ることと、あと念仏ですか、これはたぶん同じセリフを何回も口に出して余計なこと考えないようにして変性意識になってるんでしょうけど、そういうことやんないと後付の理屈をわかったような気になるだけなんじゃないですかね。まぁその体験でオールオッケーじゃないのは瞑想ばっかりやってたのにテロ集団になったオウムとか見たわかるんですけどね。アメリカに伝道に行ったチベット僧が軒並み高級車にのって堕落したなんて話もあるんで。


http://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight?language=ja


このビデオはTEDでやってた仏教的な悟りの状態にかなり近いと思しき状態の体験者の語りです。興味があったらチェックしてみてください


自分の場合、子供の頃に夢遊病があったり中学の頃は精神がおかしくなって統合失調症みたいになってたので色々と理屈を知る前からその体験自体はしてたんですよね。「全ては一つなのだ」という悟りとは別ですが、貼っていただいた動画の内容のような左脳の機能が完全に停止するみたいなことは自分にとっては日常的でした。あと霊的な話とかは別として幽体離脱みたいな経験もしょっちゅうしてました。子供の頃から寝る前に異様に不安になったりしてその不安がピークになると何かが外れたようになってしまって体が浮いたような状態になって色々な映像や音などがごちゃごちゃにフィードバックを起こすみたいなそんなことがしょっちゅうありました。決して気持ちの良いものではなかったんですが、もっと気持ちよいバージョンはドラッグをやったときですかね。ドラッグをやったときの感じの映像化ってよく映画でされてますけどまさにああいう感じですね。で、そこで鳴っている音とか音楽をそのまま音楽として出力できればとんでもないものが作れるなぁーって思いましたね。まぁ実際に音楽とドラッグが切り離せないのはこういうところですよね。サイケにせよダンスミュージックにせよ動画で語られているような左脳的な機能を停止させて右脳のみで快楽を享受するという感じになりますよね。まさしくトランス状態というやつです。


科学的にも瞑想は一種のトランス状態を起こすって言われてますよね。瞑想などの修行をずーっとやっている僧侶達はあたかもドラッグをやったときのような恍惚の状態にすぐに持っていけるそうですね。まぁだから瞑想ってある意味でのナチュラルドラッグというかなんというか、ようは頭から自然にドラッグ的な物質を出す技みたいな感じですよね。ヒッピーカルチャーとドラッグと東洋思想みたいなのが親和性が高いのもそういう理由ですね。それは論理が合うというよりかは体験そのものがまさしくそれであるって感じなんですよね。曼荼羅なんかも幻覚を見ているときの映像がめちゃめちゃになったのにそっくりですからね。大麻なんかが普通にレクリエーションドラッグとして普及している欧米ではこの体験は割と普通なんですよね。日本は異様にドラッグに厳しいんでこういった体験をすること自体が稀な話になってしまうんですが、まぁ逆にあれですよね、体験だけなら凄く楽ですよ。何も読まなくてもそれをもたらす物質をとれば経験できますからね。「全てが一つのように感じられる」というのは変性意識やドラッグなどをやってトランス状態にある人の体験談としては非常によく見られるものですよね。そこに仏教の教えとか物理学の理屈なんて存在していなくて、「ただそう感じられた」というだけの話ですよね。


で、僕は悟りというのはそういった変性意識による体験だとは思っていないんですよ。むしろ理詰めで分かることが悟りなんですよ。例えば変性意識とモラルって関係ありません。ドラッグでハッピーになったから世界平和を望むようになるのか?というとまぁ大麻みたいなダウナー系のドラッグは凄く心が平和になるんで関係ないとは言い切れないとは思いますが、脳内物質のバランスの変化による変性意識自体はドラッグ体験とあまり変わらないものだと思っているので、そんなに重要だとは思わないです。そういう意味で気持ちよくなるためだけの瞑想というのはドラッグと同じなので快楽主義的ですらあると思ってます。そういった快楽的な瞑想と、例えば「全てのものには仏性が宿っている」というような認識は関係ありませんよね。だからオウムは快楽主義的な瞑想をずーっと行って勝手に自分達の理想郷を作るためにテロを起こしたわけですよね。仏教的な悟りがあればテロなんてまずありえない話です。いかに瞑想やそういった感覚的な体験自体と悟りが関係ないものか?というのを如実に表しているものだと思いますね。


考えるよりも念仏とか瞑想という実践を重視するというのはスタイルの問題なのでそれ自体は良いとは思いますが、僕はそれは全然仏教と関係ないものだと思っています。原始仏教というのは仏陀による思想なので、超越体験やドラッグ体験や変性意識などとは関係ないと思っています。それは仏教というものが確立された後に色々と後付で加えられたものだと思いますね。むしろ仏教の教えを理解せずに実践だなんつって快楽のための瞑想ばかりをしてるなんてただの快楽主義じゃないかって凄く滑稽に思いますね。でも僕自体は瞑想自体をやっていたこともあるし、あとは瞑想と同じにするのはどうかとは思いますがヘミシンクという脳波を特定の状態に持っていくようにする音波と音声ガイドが入っているCDで半年ぐらいヘミシンクをやっていた時期がありました。で、ヘミシンクはなぜかオカルトや神秘主義と結び付けられて「仏陀と会話ができる」とかって喧伝されたりもするんですが、これは脳で起こっている現象を勝手に人間が解釈して作り出す世界ですよね。仏教の涅槃というのはこんなに短絡的なものではないんですよね。


TEDのプレゼンにニルヴァーナという言葉が出てきますが、これは本当に西洋的な涅槃の理解ですよね。まさに英語のニルヴァーナというのはユーフォリアを指すものであって仏教の涅槃の概念とは全く関係ないと言えますね。ちなみに自分はヘミシンクを続けることでヘミシンクで得られるような体験そのものを得ることが出来ましたが、もちろんそれが本当の宇宙との会話なのか?というと違いますよね。イメージはそうかもしれませんが、実際はただの脳による幻覚なわけです。ちなみに僕はヘミシンクもそうですが、子供の頃に悩まされていた夢遊病や幻覚みたいなものもそうですし、ドラック的な経験もそうですし、統合失調症によるめちゃめちゃな世界も経験しているので、「体験者」としてはバリバリの上級者だと思います(笑)それが分かっているからこそそういったサイケデリック体験と悟りは関係ないって言えるわけです。


悟りを開いた人というのは悟りの認識があるから「この世にも救いはあるのだ」ということを他の人にも説くようになるんですよね。つまり悟りがあったからこそ現実世界との接点と自分のコミットメントが決まっていくという感じなんです。そういった意味で悟りというのはサイケデリックな体験を指すのではなくて本質的な意味での智慧を指すんですよね。心を自由にする智慧という意味では西洋的な意味での知識の積み重ねによるリベラルアーツとも通じるものがあると思います。「賢者の石」などと言われるものがまさにこれですね。でもTEDのプレゼンにあるような体験が人生観を変えるということはありえますし、それはその人の人生というコンテキストによると思います。そういう意味で僕はこういった体験自体を「ただの脳の幻覚」と切り捨てることはしないです。なぜならそれはその人にとって重要な認識を得られるきっかけになるものなら素晴らしいものだからです。でも人によっては「みんなこの世界に連れて行かないといけない」とか思って他の人を殺そうとしたり、「宇宙への旅」といって集団自殺したりもしますよね。この体験自体に善悪はありませんが、非常に危険なものであるのは確かです。


なのでまぁドラッグ体験とか瞑想によって「全てが一つに感じられた」ということと、実際に神秘主義や超越論とは関係ないところで、論理的な必然性によって全ては一つであるという認識に至るということは関係ないですね。色々と後になって歪められた仏教はこの辺がごちゃごちゃになってたりしますね。正直、僕はこういうただの脳内体験を大げさなものとして解釈するような短絡的な考え方が大嫌いなので、正直、軽蔑しますが、でもその体験自体は仏教や倫理や真理などとは関係なしに素晴らしいものなので、凄く価値があることだとは思いますけどね。だからまぁみんなトリップしてるほうがみんな絶対に幸せだって思うんですけど、まぁ現実の社会だとそれは許されませんよね(笑)


でもTEDにあるような左脳と右脳の話で言うと結局、自分の経験からもそうなんですが、左脳の理詰めの世界だと結局は絶望に至ってしまうんですよね。そこにブレイクスルーを与えるのが感覚的な右脳の世界だと思っているので、結局、必要なのはバランスなんですよね。感覚と理性のバランスというんでしょうかね。まぁどちらともにガンガンと優れていて鋭いほうがいいので、だから色々な形での修行やトレーニングや勉強をするということが大事なんだと思いますね。まぁ世の中とはどんどん遠ざかっていってしまうとは思いますが、修行者なんて歴史的にどこを見てもそんな感じなんでそれは別にいいとは思うんですけどね。最終的な落としどころに現世があるということが分かっているので、だからこういった日々のトレーニングや勉強というのは間接的に社会的コミットメント足りうるものとして成立するんですよね。ここが理論と実践というところなんだと思います。生きる作法という意味では知のテクネーですよね。


でもまぁ実際に生きていれば色々なものに心を惑わされたりダメージを受けたりするので、そういった中で認識を深めるということこそが本質的な修行なんだと思いますね。仏陀も本当の修行というのはそういった世俗の中でするものであるって言ってますからね。寺とか山に篭って瞑想しろなんて一言も言ってないはずなんですけどね。


あと最後になりますが、動画のURLありがとうございました。こういう形で情報を与えてくださるのは本当にありがたいことです。やり取りもログとして残るので本当に感謝です!

naonao 2014/11/03 02:53


自分は高校のときくらいは善にはそれこそ公理みたいなものが必要だって思ってましたが、今は公理みたいな型じゃなくてアプリオリな善、善のイデアってあると思ってます。まあ当初はそれで善の押し付けというか全体主義的なものに繋がっていくんじゃないかって思ってましたが、まあ数学がアプリオリでいろいろ決まっていても自由があるように善がアプリオリに規定されていても多様性というようなものは十分あるなって思います。まあ自分はそういう善のイデア的なことは多分あると思ってると思いますが、真理の追求となるとなんかイデアと現実みたいな区別をしていた気がします。まあやっぱりそも数学やってるのに社会とかといった現実的な真理を追求しないというのは矛盾してるのかもしれませんね。まあなので余計なんといいますかイデアに逃げるというより数学的なものに逃げてまさにドラッグですよね。まあでもなんといいますか真理に近づくほうが楽ですもんね。現実の理不尽さとかそういうのをいろいろ考えたりした上で今があるっていうんですかね。まあ俺なんかでも理不尽だって思えるくらい社会が狂ってますけどまあその狂いに気づかず悪い意味でボーっと生きていて「普通」に生きていたらと考えると怖いですね。


狂ってるしまあ生活圏での孤立とかあって辛い部分もいっぱいありますけどなんというか社会が狂ってるっていうことが分かるからこそまあその辛くても理不尽でも真理的なことを追求してきたからそういうことが分かるわけで、曖昧にしか分からなかったりそれで思考しなかったら結局一般で言われてること、マスコミなんかを鵜呑みにして曖昧な考え、理不尽な考え、狂った考えに留まるわけですからね。この前も父からゾンビ的攻撃を浴びました。まあなんというか不思議なことにそういうのがあると自分は間違ってない、っていう自信があるというか、改めて社会が狂ってるんだなって分かるといいますか、まあそういうのもあったからこそここ最近数学に没頭できているというのはありますね。で、なんというかネガティブな動機ですが凄いなんというか起爆剤になって抗うかのごとく数学に没頭してますからね。まあでそこで数学やってないとどんどんその攻撃的なものを過去のものからいろんなものを引き寄せちゃってだけどそのときにいろいろ考えることは的を得ているし、そういうときってすげー考えるわけでなんというかある意味思索っていう意味でいいですよね。


もちろんそれが憂鬱っぽいものになって大変なんですがそのおかげで没頭できるというのもありますし。まあその意味でやっぱり真理というのに差はないんでしょう。まあでもイデア的には差がなくてもその違いはあるとは思ってる段階ですかね。その考えれば差はないんでしょうけど、数学的な追求はすごいハイに近くて現実的な真理の追求はまあ思考とか充実してますし凄く的を得てるでしょうがハイではなくて憂鬱っていう、まあそれでもそういう憂鬱ながらもそういう真理的なものがあるから楽っていうのもありますが、数学の場合完全にハイという意味でやっぱり違いはあるような気がします。いや、mimisemiさんが言う善のイデアもわかりますし真理に現実もイデアもないというのは分かりますが、ただ僕はやっぱり違いがあると思います。まあその差がなくなったときが悟りのようなものなのかもしれませんね。


naonao 2014/11/03 02:55


あ、まあそのハイかどうかの違いですから主観的なものっていうんですかね。その客観的な見地でいくと差はないのかもしれません。まあそうですね、だから客観的にはこうなんだろうっていうか真理に違いはないって分かりますが主観的には違いがあるように思うって感じですかね。


凄く良いポイントです。イデア的な絶対性の概念を社会や政治に持ってくるとそれは全体主義的になります。プラトンの賢人統治というのはまさにこの概念なんですよね。ハイデガーはモロにこれを濫用してナチスの正当化を行ってましたね。ああいう場合は何を「善」とするかで、例えばナチスの場合、力とか武力とか権力だったんですよね。歴史的にも強い国みたいなのが望まれていた時代なので余計に説得力があったんでしょう。でもまぁ基本的にこの武力とか権力みたいなのを善の中枢に置くようなものは全部ファシズムになりますよね。イスラエルとかイスラム国とか宗教的な差はあれどこれはどこも一緒ですね。


もちろん言い方としては平和のための権力ということになるんでしょうけど、基本的にこの考えってイスラム過激派とかナチスとか旧ソ連にしてもそうなんですけど争いを無くすために自分のところのイデオロギーで支配して全てを統一して争いを無くすというようなことは結局、それ自体がヘゲモニー争いになってしまって違うイデオロギーが存在しあう以上、争いは絶えないということになりますよね。理想はどこも戦争をしていない平和な世界だけど現実はヘゲモニー争いや宗教的な理由などでしょっちゅう色んなところで戦争が起こっているということなわけですが、ここで「理想的な世界像」というのが具体的ではないにせよ、「どこも戦争をしていないような平和な世界」という理想像が誰にでも描けるということ自体がイデア的なんですよね。それは現実には存在しないのになぜイデアとして存在するのか?というところが全く数学のオントロジーと同じなんですよね。この世に完璧な三角形は無いとしても完璧な三角形を概念的に浮かべることが出来るっていうこれがつまりはイデアですよね。


これは別にドグマティックにプラトンイデア論に依拠しなくても、概念のオントロジーとして考えれば論理的な必然性が見えてくるんですよね。この必然性がイデアなんだと思うんですよね。でもそれが存在してそれが原理になる以上、規範的な強制力が発生してしまうのである種の自由は奪われますよね。でもその奪われる自由というのは善と相反するようなもの全般の自由なので、例えばそれは人を殺す自由であったり、世に溢れかえってるような法に触れていなければ何でもやっていいというような悪の自由だったりするんですが、そんな自由を許したら社会はめちゃめちゃになりますよね。でも実際の社会ではそこまでの善の規範的な強制力が存在していないので合法的に悪が蔓延るんだと思います。法と善とは違いますからね。だからこそ相対主義に陥らないような、確固たる善の基盤の存在というのは知らなければいけないし、それを知るということが真理の追究ということになるんですよね。


naoさんもおっしゃってるように社会が理不尽なのは真理から程遠いからなんですよね。それを担うゾンビ的人間も大量にいるので理想的な社会なんて程遠いまさに理想のありえない世界という感じがしてしまいますが、でもしつこいようですが、その理想というのはイデア的という意味で絶対に正しいんですよね。それは数学的事実が正しいのと同じ理由です。もちろん「そんなの決められるわけない」というような相対主義的な考えもありますが、イデア的な考え方はそういったものに抗うものでもあるので、相対主義が行きつくした現代にこそ有用な概念だと思うんですね。イデアには必ず「確かさ」というのがありますからね。もちろんそれが実現されない現実というのは絶望するしかないし、ゾンビ的攻撃を浴びせてくる人間も大勢居るので、むしろこうやってイデアについて語っている側の人間が狂っているように思えてきますよね。ゾンビは「あいつら何言っちゃってんの?」って必ず言うんですよ。でもこれってソクラテスの時代から変わってなくて、これはcity VS philosophersという構図なんですが、真理を追究する人と大衆というのは必ずぶつかるということなんですよね。


ところで「真理に現実もイデアも無い」ということは僕は言っていなくて、イデアイデアなので例えば「善のイデア」というのはイデア界における善の概念に対応しているものということなだけで、それは考え方が逆なんですよね。善の概念がイデアに対応しているのではなくて、イデアに対応する善の概念が本当の善の概念ということになるんです。だからまずはイデアありきなんですね。でもそんなのは分からないのでイデア界の全体像というのを考えることは不可能なわけですが、でも部分的にイデアとの対応を感じることが出来るものはあるし、それは真理の追究というプロセスの中で見えてくる世界なんだと思っています。もちろん全体像を見ることが出来なかったらそれは意味無いじゃないかって話になるんですが、それを言い出したら結局は不可知論とニヒリズム相対主義に陥るしかなくなりますよね。でもここは考え方なんですが、イデアがあるということが人間にとっての救いになるということなんですね。なのでこれは基本的に仏教の話とも同じなんです。なんで同じなのか?というとそれがイデアだからなんですよね。つまりは真理だからということになります。


これに関してはどれだけ色んな人から「馬鹿じゃねぇーの?」って言われても追求するしかないものですよね。世間の目というのは厳しいというか、大抵の人がドクサの中で生きているのでそれはしょうがないですよね。別にそこで見下す必要も無いし、真理の追究をしてるから偉いんだなんてこともないので、そこはもうライフスタイル次第というかなんというか、でもまぁ大抵の人と話が合わなくなるという意味では茨の道ですよね。

あ、まあそのハイかどうかの違いですから主観的なものっていうんですかね。その客観的な見地でいくと差はないのかもしれません。まあそうですね、だから客観的にはこうなんだろうっていうか真理に違いはないって分かりますが主観的には違いがあるように思うって感じですかね


この「主観的に感じる違い」というのがまさに人間の感覚の知覚によるドクサなんですよね。これは人間である限りあって当たり前なんですが、そういった世界から解放してくれるのが本当の智慧というものなんですよね。これはギリシャ哲学でも仏教でも共通していることですね。


naoさんは今後も周りから色々といわれたりするとは思いますが、「自分は間違っていない」というその感覚は絶対に正しいと僕も思います。なぜならそれがまさしくエロスだからなんですよね。naoさんは「真善美に到達しようとする哲学的衝動」に駆られて数学に没頭しているわけで、これが正しくなかったら何が正しいんだ?って話になるぐらいラディカルな話だと思います。その「間違っていない」という自信は是非、持ち続けてください。それはすぐには何かとして表れないにせよ、長期的に見ると絶対に人生に絶大な影響を及ぼすものになるし、「確信を持ち続けていたよかったな」って思える日が絶対に来ると思います。むしろ僕やnaoさんはこの空虚な時代に猛烈に没頭できるものを持っている人間なわけで、それだけで凄く強いと思うんですよね。まさしくこれはニーチェ力への意志そのものなんですが、will powerというのは人生におけるエンジンのようなものなのでガンガンに鍛え上げたほうがいいんですよね。それが鍛え上げられると所謂、iron willというものになってある意味での最強の武器になったりします。こればかりはお金で買えたりするものではないし、学校などに行けば得られるようなものではないので、会得できたらそれはもう物凄く価値のあるものになると思います。僕もそれを目指して日々、邁進している感じなので。


そんな感じで今日はこの辺で失礼します。