ラディカル・クリスチャニティのススメ。

新しいやつ出たので。

 

Taboric Light

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なんかさー思ったのが俺って最近のオカルトと真面目な話を混ぜたような切り口でラディカルに色々と切っていったほうがいいわけで革命家なのは変わらないけど宗教改革者ってのもいいかなと思って(笑)ラディカル・デモクラシーとかシャンタル・ムフが標榜してるようになんかキャッチコピーって作るといいから俺はRadical Christianにしようかなと思ってるんだよね。

 

もしくはRadical Christianityか。根源的にキリストに帰れ!ってことでMan madeな教会とか権威をアナーキスト並に徹底的に批判したり認めないっていうね。ミュンツァーの文献ってそんなに多い感じはしないんだけどSerom to the Princesとかすんげーかっこよくてニーチェとかって文章とかから熱量伝わるじゃん?マジで熱くなってんなこいつ感が凄まじいけどミュンツァーもすげーよ。

 

いや、基本的にだからイデオローグをミュンツァーにするって感じだよね。イデオローグが俺だと誰もついてこないけど(笑)ミュンツァーだ!って言えば動員力ありそうだなと思って。まぁなんだろう、神と人の間の仲介者なんて認めない!っていう感じだよね。

 

結局、宗教って古いドグマのままだから悪くなりがちなんであって原始仏教に帰れ!とかって考える人がいるのもまぁそういうことじゃん?でも仏教はそういうのがあるのに対してキリスト教って全然無い気がするんだよね。ニーチェが批判してるような弱者の論理みたいな感じになってるのと世俗化してアメリカのメガチャーチみたいな「アメリカ教」になったりしてるから根本とか根源を大事にするってことだよね。ルーツを大事にするということだよね。

 

だからそういう意味でシモーヌが結局教会の洗礼は受けなかったとかってのも過去に十字軍とかが虐殺をしていた野蛮な歴史があるものだからっつってあくまでキリストに帰依するけど教会とかっつー組織は違うよなっつースタンスだよね。それでもまぁなんだっけシモーヌの手記を出版にこぎつけた人だったか忘れたけどシモーヌが信頼してたカトリックの神父とかまぁ個人で見ればシモーヌレベルの人が信用するに足る世俗の牧師とか神父もそりゃいるだろうけど基本組織である以上毒されてるよね。

 

児童虐待っつーかペドフィリア隠蔽とかをカトリックは公にやってるわけでそれでどこだっけなチリとかさ、良心的な人たちがカトリックやめる!っつってやめたんだよね。こういう宗教離れはガンガンやってってほしいと思うんだよね。プロテスタントもルターって調べると大概なやつで特にまぁルターが悪いと言い切れないんだけどユダヤ人へのヘイトっていうものの根拠づけをした人でナチスがそれを利用したからね。

 

でもそれってニーチェを悪用したとかってレベルじゃなくてヘイトはルターと同レベルかそれ以上だったんで上手く合うんだよね、ナチスとキリスト教の関係とかの本も並行して読んでるんだけどかなりエグいんだよね。そりゃボンヘッファーも「ボンヘッファー動きます」って言うよなっていうね。

 

なんかカルケドンがどうのとかニカイアがどうだのとかあんなのどうでもいい神学論争で派閥が分離したって話なだけでそんなの後世のどうでもいい話なんだよね。もっとシンプルにキリストの福音に帰依すればいいわけで。マリアが聖母なのかどうなのか?とかさ、マジで処女で身ごもったのか?とか、そんな神話的なところをリアルに考えることに時間を費やしたりそういう論争で派閥が分かれたりとか完全に人間の世俗の話だよね。めっさくだらない。

 

それより社会を良くしようとか善く生きるってことがキリスト者であるってことじゃん?だから政治と関係ないんだよね。ただキリストの言うことをリテラルに受け取るとミュンツァーみたいな過激派にもなるってことだよね。何しろ世の中にキリスト教とかがある割にキリストの福音とかけ離れたものだったりするわけだからね。

 

まぁエンゲルスとかがミュンツァーを評価しててエンゲルスがそう書いたかはともかく初期共産制じゃね?これ?とかって思ったわけだよね。でもそれってミュンツァーがそう言ってるっつーよりキリストが言うことをそのまま体現しようとすると少なからず共産制っぽくなるってことだよね。少なくとも資本主義とは相当相性が悪いはずなわけで。

 

 なんか仏教とかって賢い人が実践してたりいるからいいんだけどキリスト教ってバカばっかだからね。馬鹿に付け込む宗教でもあるしサルでも分かる聖書みたいな超訳レベルの世俗化されたものになってるから福音を広めよって書いてあってもバカには分からないから小乗でいいんだよね。小乗で目覚める人とかオーガナイズする人が増えればいいわけで、まぁ俺はその日本におけるラディカル・クリスチャニティの宣教師第一弾ってことになるわけだね。いや、いいじゃないっすか!ガンガン止揚できてますよ!

 

日本はだからラディカル・クリスチャニティの発祥地になれるね。世俗のキリスト教信者の少なさが逆に功を奏する感じだよね(笑)あまりに資本主義が酷いからマルクスとか共産制にシンパを感じる人が増えてるとかっつー貧困化と不平等の流れもあってちょうどそのラディカル・クリスチャニティが根付く土壌ができてる感じだよね。

 

でも聖書読むのって大変そう・・・って思ってもご安心を。田川健三訳の新約聖書だけ読めばいいです(笑)旧約聖書はユダヤ教の聖典なのでキリスト教とは関係ないとするのがラディカル・クリスチャニティの立場です。マルクスで言えば共産党宣言だけ読めばいいみたいな感じかな(笑)

 

聖書って分厚い理由は旧約が9割ぐらいを占めてるからなんだよね(笑)違う宗派の教典を1セットにしたらそりゃあんだけ分厚くなるよっていうね。

 

あとまぁ実践としてはキリストの言ったことをそのまま行うってことじゃなくて時代に適応した実行可能でサステイナブルなキリスト者としての行いを推奨しますってことだね。貧者に富を全て分け与えて残りの人生を祈りとともに過ごせとか無理ゲー過ぎるし(笑)あと同性愛とか中絶とかもちゃんと時代的コンテキストで理解すればキリストが居た時代ってのは2000年前なんで同性愛とかが性的倒錯と思われているのはしょうがないわけで、科学が発展した今ではそれは性的倒錯ではなくてそういったアイデンティティなんだってことが分かってるんで、そういった科学に準じたキリスト者でいましょうってことだね。

 

聖書のリテラルなこと以外認めん!ってのは危険な原理主義になってアメリカのバカが中絶をしているクリニックを爆破するようなことがあるように、ああいうヤバいことをやる輩が増えても困るし逆に来られても困るので、そういったリベラルで賢いキリスト者としての矜持と勉強を続けられる特別な人のみに開かれた思想ですって感じだね。

 

あと基本資本主義を嫌う感じがマルクスに通じるのは基本的に資本主義はヒューマニズムから遠ざかるものだから常にアゲインストな立場であれ!ってことだよね。あとまぁ俺の思想も混ぜていくから(笑)金がイニシアチブになってるようなものに常に懐疑的になるかもっとラディカルに批判をしていけ!ってことだね。

 

なんでバズるとかYoutubeの再生回数が重要なのか?っていうと金に繋がるからでしょ。内容が問われない金だけがイニシアチヴのものはサタンを相手にしたかの如く「去れ!」と言うべし!そういった価値観の貧困さに気が付きなさいってことだよね。

 

でも別に金儲けが悪いことじゃないしキリスト原理主義だと清貧みたいなミニマリズムが推奨されがちだけど金でできる善い行いってめっちゃあるから善を軸にしたマネタイズとかお金の流れを考えるなり作るべし!っていうラディカル・クリスチャニティ的イノベーションですね。

 

うっわ!動機づけ金?だっさ!っていう風潮を作りなさい。行いのイニシアチヴが称賛されるような世の中にしなさいっつっても無理なんで小乗の世界ではそういった価値観を一貫化させることが重要ですね。

 

その辺の現代社会との兼ね合いが絶妙なパラマハンサ・ヨガナンダとか宗派関わらず現代における霊性とか徳を積むことができるような思想家とかグルの言葉を参照しなさいってことで別にそれはキリスト教系の思想家に限らないし逆に偏屈なキリスト教以外邪教だというようなものには耳を傾けてはいけませんってことだね。仮にバルトみたいに評価されてる神学者でも完全にアウトですね。そういう対外的で傲慢なものは絶対アウトね。それはキリスト自身が「キリストの名においてのみ」なんていう絶対化はしてはいけないって御心で思っておられるからですね。

 

仏陀みたいに明言していないだけで覚者が思うことには共通性があるのでキリストを絶対視して対外的になるなんてのはもってのほかです!ってことですね。

 

当時のキリストはこう言っていたけど今キリストが生きていたらなんと言っただろう?っていう自分の中にキリストを落とし込めるぐらい勉強をして訓練しなさい。そうすればいかに中絶禁止!とか同性愛婚禁止!なんてのがアンチクライスト的であるというのが分かるはずです。

 

世俗化された宗教に顕著なのはキリスト教を標榜しておいて実態は凄まじくアンチ・クライスト的であるものが多いということです。真にキリスト者であるとはどういうことか?ということを考えたときに既存のあらゆる分派を含めたキリスト教の教義とは嚙み合わないと思ったら教団が勝手に決めつけているキリストではなく自分の内なるキリストに耳を傾けて判断しなさい。そうすれば自然とあなたの心は世俗のキリスト教からは心が離れていくはずです。現代において真にキリスト者であるとはそういうことです。

 

ラディカル・クリスチャニティは基本ゲリラ活動なので、こういったネットでの布教などを推奨します。説教は何も牧師や神父がやることができる特権ではありません。眠くなるような教団運営の話とか自慢話とかどうでもいい話を聞かせるよりも聞いたり読んだりした人が「よっしゃ!やったるわ!」って思えるような熱量を持った説教を全身全霊で行いなさい。ミメーシスは聖霊によって起こることでしょう。

 

ラディカル・クリスチャニティにおける礼拝の音楽などは基本、既存の教団が使っているようなダサい古臭いものではなくて超ラディカルな現代音楽作家が作ったような教会音楽を選びなさい。といってもラディカル・クリスチャニティは教会がないので祈りの場や思想を形成するポータルにおいてのテーマ曲やBGMとなるようなものを徹底的にラディカル化されたかっこいいものにしましょう。

 

日々の読書の中に必ず霊的読書の時間を設けること。つまりは霊性が高まるような初期ギリシャ教父やキリスト教神秘主義、仏教や禅などの本を読むようにすること。トマス・アキナスのようないかにも西洋臭いくだらない理詰めの教義学などは全く読む必要がありません。あくまで霊性を重要視しましょう。そういった意味ではあなたの霊性が高まるものなら何でもいいですね。その辺はフレキシブルな感じで。

 

霊性を高める祈りと瞑想は毎日必ず行うこと。やり方などは個々が古今東西の祈りや瞑想や霊性に関する膨大な文献をディグって研究すること。その中で自分がやり方を知るということが重要で「何々メソッド」のような簡略化されたものは問題外です。

 

ラディカル・クリスチャニティが定着しないと絶望しないこと。逆に日本のようなキリスト教的土壌が無い国ではチャンス!と捉えましょう。もしくは定着しないことが既存の世俗的キリスト教の霊性の低さを表しているので、日本人の霊性や世界観と合わなかったなどと前向きに考えましょう。

 

耳蝉個人としては京都学派的な禅や仏教に根差したバタ臭くないキリスト教理解を推奨します。だったら仏教でいいじゃん!って思ったら仏教徒になって良い行いと生き方をしてください。ラディカル・クリスチャニティは布教が目的なのではなく、あくまで善を推奨するノンセクト的な個としてのラディカルです。

 

ラディカル・クリスチャニティでは仰々しい儀式などを徹底的に排除します。祈りや瞑想もいかにも祈っていたり瞑想しているっていう感じではなく寝る前にやるマインドフルネス瞑想ぐらいの宗教臭くない感じが好ましいです。キリストがパリサイ派を批判していたように「俺、祈ってるぜ!」みたいに見せつけるような大げさな祈りとか瞑想は自己陶酔と自己顕示以外の何でもないので祈りや瞑想は人目につかないところで一人で行うことが望ましいです。

 

祈りは願いではないのですが、願いも内容によっては通じる場合があります。例えば「金が欲しい!」というようなことでもそれを有用に社会に還元したり善のためや自分が世俗から離れて霊的生活を金銭的な心配をせずにするために必要であるというような、建前ではないリアルな金がいる必要を願えばお金はあなたに善のリソースとして与えられます。

 

私利私欲ではなく利他的であることが必須です。霊的な生活を送るという動機づけもラディカル・クリスチャニティの実践のリソースとしてのお金ということで、最終的にそれを善として社会に還元するということが望ましいです。神から与えられたものは必ずどこかに還元しましょう!あなたはそのただのフィルターに過ぎないのです。自我などは捨ててしまいましょう。

 

色々とストイック過ぎてラディカル・クリスチャニティを実践できそうにないと思ったら無理してやる必要はありません。どうしてもやりたい!と思うなら耳蝉が欲を飽きることによって滅却したような、やりたいことや欲しいものなどをやりつくして徹底的に飽きて人生でやること無くなっちまった・・・ぐらいの状態になってからやると効果大です。

 

我慢は良くないのでやりたいことや欲しいものがあったり性欲が有り余っていて色んな子とファックしたいならそういった欲望に忠実に生きましょう。最終的にやり尽くすとやることなくなるのでその時がラディカル・クリスチャニティ的生活に入る契機になるかもしれません。欲の滅却ややせ我慢はみっともないので絶対やめましょう。リアルに色々やりすぎてやることない!ぐらいのナチュラルな欲の無さが望ましいです。

 

先ほどの祈りにおいて神マネーや宇宙マネーにアクセスしたい場合、私利私欲があると無理なのでそういったものは自分で稼いだ金でも親の金でも誰の金でもソースを神とするのは現金だけに厳禁なので、飽きるための欲の滅却は実費でやりましょう。金と共に欲も燃えていくイメージです。その後にラディカルクリスチャンとして生きることを決めた後に必要なお金を神に願うことは可能になります。

 

神の存在を認識していながら絶望することは罪です。逆を言えば存在を認識していれば絶望が介在する余地が無くなります。それでも苦しみや悲しみがあっても絶望するということは無くなります。究極的なアンチ・ニヒリズム思想がラディカル・クリスチャニティです。

 

ということでそんな感じで今日はこの辺で。