daimonionさんへの返信。その2。

id:daimonion 2021-08-12 11:31:42

 

mimisemiさん返信ありがとうございます。 私が哲学から数学へと興味が広がっていったのはmimisemiさんの影響もあるので、自分に影響を与えた人とやりとりが出来ていることに素直に感動しています。

 

 

mimisemiさんの思索に良い影響が与えられたら幸いです。 宗教の世俗化と腐敗の構造については本当におっしゃる通りですね。政治学がなんとなく権力や組織の力学を研究することもあるのは聞いていたのですが、政治学の議論が世俗宗教の集団に対して適用できるというのも中々皮肉で面白いですね。

 

 

世俗的な宗教集団が神秘的な思想や善い生き方を実践する集団などではなく、神秘性を利用する政治集団であることの証左ですかね。集団と権力というものは宗教に限らず人間の活動のどこにでも存在するものなので、政治学のこういった議論は普遍性を持っていますね。mimisemiさんのブログでは昔から政治学の話題があったことは知っているのですが、自分は全然チェックしていなかったのでミヘルスの著作などを調べてみようと思います。

 

 

パリサイ派の人々のように形式的に教義を守ることだけを考える人って現代にも通じる話ですね。まあ、私はそんなに大した人間じゃないので人のこと言えませんが。ユダヤ教は、ただひとつの神との契約という概念が何よりも重要なんでしょうね。

 

 

そこで律法を守り聖書に書かれたことを実践することがユダヤ教徒にとっての善い行いになるのでしょうが、この論理が歪んで律法を守ってないから救われないんだ、みたいなことになるんでしょうね。実際に外国人のみならず、配偶者を失ったユダヤ人の女性もユダヤ教社会で生きていくのが大変だったみたいです。 ユダヤ人達が神のもとの法を重要視したのは、多神教を社会的な価値観に持つ大国で差別されていたことが何よりも関係してますよね。

 

 

モーセの十戒なんか読むと、とにかく偶像を作らせないし、神の名前すら呼ばせない。エジプトとかバビロニアの詳しいことは忘れたんですけど、バビロニアなんかの宗教を読むと神とその奴隷としての人間が描かれていて、これは多神教社会の神=貴族と奴隷=庶民の間の関係性の正当化だと思うんですが、これから想像するにユダヤ人なんてエジプトでもバビロニアでも奴隷=庶民以下として扱われていたと思うんですよね。

 

 

だから多神教的社会で学んだ階級社会への道を徹底して避けようとするわけなんですよね。この辺の話を知った時って結構衝撃でした。自分のイメージでは一神教=排外的、多神教=寛容、みたいな雑な見方があったので哲学をやっている上での1番の驚きだったかもしれません。しかし、よく考えると多神教が寛容なんて特に根拠がないですよね。

 

 

ヒンドゥー教なんかもブッタの生きてた時代からカーストによる身分制度があったりしますが、国家ができた後に取りこれた少数民族なんて酷いものでカーストにすら入れてもらえないで差別を受けたりしますよね。日本の坊さんとかでも日本は多神教だから寛容みたいなことを言う人がいますけど、差別戒名なんてものがあったことを知らないのでしょうね。

 

 

日本人と宗教みたいな話で言うと、何かとアニミズムを推してくる感じがありますけど、あれって欧米人が日本のことを原始的な宗教を信じてる連中っていう風に見下してる目線が含まれてますよね。学術的なアニミズムは置いておくにしても日本人はなんとなくアニミズムというのに誇りを持っていて自然を愛して動植物と仲良く暮らすみたいなことを想像していると思うんですけど、これって都市に住む現代人的、つまり古代においては余裕のある貴族階級の発想だと思うんです。

 

 

日本神話においてもオオゲツヒメは排泄物として穀物などを与えてくれるんですけど、ケガレているもの出してくると思われて殺されるんですよね。そして、屍体から穀物の種とかを貰うって話なんですけど、これって自然採集から農業への移行を意味してますよね。

 

 

つまり自然を人の手で破壊して自分達の都合に応じて作物が取れるよう改造するという行為の正当化ですよね。実際のところ定住生活以前の人々が好んで農業を行っていったかっていうと怪しいですけど、少なくとも自然との闘い的な側面があったことは認識してると思うんですよね。私のような現代の都市生活者にとっては自然保護の代表みたいな位置付けになってておかしいんですけど。

 

 

宗教にまつわる話だと私は、和辻哲郎の「風土論」に結構騙されましたね。和辻は一神教は砂漠的な厳しい気候で生まれるみたいな、それらしい話をするんですけど歴史的に考えれば一つのコミュニティには原始一神教的な神や宗教があって、いくつかの諸部族が集まっって大きくなっていく過程で多神教になっていくはずなんですよね。

 

 

その諸部族間の政治や闘争が神話の形で記されるわけじゃないですか。ユダヤ教やキリスト教なんてのも大まかな構造としては多神教的大国へのカウンターとして作られていますし、砂漠の国家であるエジプトなんかは普通に多神教ですよね。そのトラウマがあるのか日本の思想家で宗教っぽいことを語る人たちは避けていたんですけど、mimisemiさんが読んでいるのなら京都学派なども調べてみようと思います。こういった宗教や哲学の話は何よりも驚きが大事ですよね。

 

 

ソクラテスも似たようなこと言ってたのに当時はよくわかってませんでした。哲学を大学で勉強した時も、理性や自由、存在、なんてことを考えたこともなかったので正直言って面白くなかったです。

 

 

しかし何年か立って中島義道の本を読んだ時に、哲学は欧米から輸入だっていう当たり前だけど気づいた時には驚きの事が書かれていて、その時にようやく哲学者たちの問題意識が理解できないということが理解できたんですよね。まさに日本人である私は欧米人の問題意識をそのまま訳も分からずに受け継いで思考するのではなく、自分なりの価値観や生きる時代に根ざした問題意識や驚きから考え始めるべきだったんですよね。

 

 

だから近代って何だろうとか宗教って何だろうっていうのは考えていて驚きや発見がたくさんあって面白いんですよ。 科学とオカルトの話で言うと今は疑似科学の問題なんかとSNSのデマ拡散性が重なって有害性を増していますから、オカルトを切って捨てる態度も致し方ないのかもしれません。それぞれのリテラシーに期待しようにも頭のいい人達が人の時間を効率よく奪おうとしてSNSやインターネットが改良?されてますから、1人1人のリテラシーだとか教育頼みにも限界があるのでしょう。ニュートンなんかがオカルト好きだったなんて話も有名ですけど、この見方も不思議ですよね。

 

 

ニュートン本人は物理学も数学も神秘も全て等しく世の中を知るための思想であり技術だと思っていたんだと思うんですよね。物理学という学問が定式化されて方法論や考え方がある程度固まってくると、過去においても物理学という分野があって今と同じだったみたいな発想になってきますけど、おかしな話です。山本義隆さんの「磁力と重力の発見」にも書いてありますけど、ニュートン1人の独創で力学を造った訳じゃないですからね。

 


それまでの天体観測や、オカルト扱いの重力、不思議な現象代表の磁力とそれに対する自然哲学者やスコラ哲学者の色んな説なんかが全くニュートンに影響しなかったわけがないですよね。 すみません、また長々と書いてしまいました。

 

daimonionさん、お返事ありがとうございます!僕に影響を受けたとのことで感無量です!自分も学徒に過ぎませんが、自分が書いていることがなんらかのきっかけになるというのは本当に嬉しいことです。

 

ところで政治学の理論なんですが、厳密に言えば政党制とかの構造と力学ということになるのですが、もっとラフに考えると「組織」という意味で経営学とかもっとミクロに捉えると心理学ということにもなるんですよね。俗っぽい言い方をすると徒党を組むとそこにすでに組織的な力学が生まれてしまうというようなことですかね。それは力学なので個人の性格や気質に関わらず組織になった途端に構造自体が人間に与える影響が出てきて、それがある程度普遍化できるぐらいのものという感じですね。帝王学的なリーダー学とかだと、そういった組織をいかに分析して率いていくか?ということが書かれていたりしますね。

 

ちなみに僕はキリスト教や神秘思想に比べるとユダヤ教関係の知識は浅いので大したことは言えないのですが、daimonionさんがおっしゃるように過酷な状況を生き延びるためのサヴァイヴ術だったわけなのですが、残念なのはそれが形骸化して厳密な戒律の宗教になってしまったことですよね。あとこれは批判ではないのですが、やはり捉え方としては旧約聖書自体に書いてあるのでしょうがないのですが、ユダヤ人が神に選ばれし存在というような選民意識が内在化されているところですよね。

 

それは差別されていた時はサヴァイヴ術として、どんな逆境にあろうとも神に選ばれし存在なのだというアイデンティティを持てたと思うのですが、それが形骸化するとやはり選民意識的になってしまいますよね。そういった偏屈なナショナリズムや民族主義になりかねない論理が内在化されているというところにやはり疑問を感じてしまいます。ただ宗教のオリジンはほぼ間違いなく民族的な物語にルーツがあると思うと民族主義的な論理が内在化されてしまうのは当たり前のことなので、特別ユダヤ教だけを選民思想とするのは不公平ですね。

 

でもdaimonionさんがおっしゃるように血反吐を吐くような思いで信仰を守ってきたユダヤ教などと比べると、日本人のアニミズムは呑気というか牧歌的かもしれませんね。でもそれはユダヤ教などの宗教の過酷さがあるから相対的に呑気と感じるのかな?とは思いますね。

 

逆に僕のような日本人からするとユダヤ人が歩んできた道というのは過酷極まりないもので、そういった中で育まれてきた信仰や形式というのがあるとそれは宗教というよりかは民族意識のようなもので、まぁ実際にユダヤ人は民族意識は強いと思うのですが、それが過酷な歴史に裏付けされたものだと思うと日本は島国で寛容というよりかはただ単に多民族とのいざこざが比較的少なかったほうなのでアニミズムなどを謳歌できたのかな?という気がしますね。

 

でもおっしゃるように神が唯一神だろうが多神教だろうがそれと寛容さは関係ないというのはその通りですね。そもそも同じ呼び方をする「神」でも言葉や概念が似ているだけで指しているものは全く違うわけで例えば日本の場合、アニミズムと仏教が混ざった独特の世界観なわけですが、そこにおける神というのは八百万の神などとも言われてなおかつ寺院には仏教の神様がいるわけですが、アニミズム的なものの神というのは自然現象や自然そのものに内在する「神性」や「神秘性」のようなものを言い方は悪いですが偶像化しただけなので、所謂、ヤハウエやアッラーのような神とは全く違うんですよね。

 

でもこれは日本に限らずキリスト教やイスラム教といった組織化された大きな宗教が来る前からの土着の宗教ってどこにでもあったりするもので、例えば森に宿るものを「精霊」って言ったりしますよね。日本は森の神様って言い方をするだけで属性としては精霊ですよね。

 

こういった神の概念自体の概念エラーって凄まじくて、そもそも一神教と多神教って比較できるようなものではないんですよね。車とバイクぐらいならエンジンとかハンドルとかタイヤといった共通するものがありますが、宗教同士というのは車と冷蔵庫を比べるようなものなんですよね。起源も違えば考え方や概念も違うので、どちらの神がどうという話ではないんですよね。ただ日本だと「お天道様は見ている」みたいな概念があったりして、でもこれはまぁ歴史的にちゃんと研究すればそのお天道様が何にあたるのか?というのはあるのでしょうけど、言わばこれって一神教的な神の概念だと思うんですよね。

 

山の神様や森の神様はいてもお天道様は見ているというような倫理に関わることになると何か超越的な創造主的な神の概念が出てきますよね。これは具体的な宗教や神話に依存せずとも自然にあるような感じがしていて、あと「あー当たっていてください!」とか「無事でいてください!」とかって日本って何に拝んでいるのか分からないけどそういうときに神頼みというような手を合わせるという習慣がありますよね。

 

これも言わば一神教的なものに祈りを捧げているとも言えなくもないわけで、ただ具体的な対象ってないんですよね。ただ漠然とした神様なんですよね。でもそういった漠然とした神様と神社で祭られているのも神様と呼ばれるので言葉の混同があるだけで、概念的には違うと思うんですね。

 

ところで和辻の風土論に関してはどちらかというと批判のほうが多いですよね。ただあれはああいう時期に書かれたものなので、一考察としては面白いけど現代に通用するものではないのは明らかですよね。あと当時の情報量なので漠然と「砂漠的な厳しい気候」といっても現地をくまなくフィールドワークしたわけではない漠然としたイメージとして語っているだけなので厳密さに欠けますよね。

 

ただ和辻は原始キリスト教の考察といった内容のものの序文か何かでこれは著者の興味の一環で学術的厳密性もなければ文献的な厳密性もないといったような、ラフななんとなく思うことの考察のスケッチであるとかって書いてあったりして、和辻本人は例えば日本の精神史などでは学術的厳密性を保っていると思いますが、モノによってはエッセイ的な考察のようなものもあるので、風土論は和辻のガチガチの学術的な本業ともいえる日本の精神史や倫理学といったものとは別のエッセイだと思っているので、僕自身はそんなに批判的ではないんですよね。何より和辻は素晴らしい思想家だと思うので。

 

話は戻りますが、daimonionおっしゃるように宗教って必ず原型となるような一神教的なものや文献的に研究が困難なレベルの超古代の宗教っていうのがあるんですよね。で、これまたおっしゃるように色んな土着の宗教やその民族に根差した神話などを持っている民族同士が共同で生活するようになって折衷するんですよね。詳しく書けない記憶力が残念なんですが(笑)旧約聖書の起源がユダヤ教以前の古代文明の神話や宗教的なものの形の寄せ集めというのを知った時は結構驚きました。というか神話学ってある程度やらないとダメなんだなって思いましたね。

 

日本神話の国造りの話なんかも色々な国の古代宗教の言わば国造り系の神話の原型というのがあって、それに沿っているものだという研究がありますが、神話学ってそこまで詳しくないんですけどそれはまぁあって然るべきだろうなって思うんですよね。

 

とにかくまぁ神話自体は当然ながら事実ではなくて、daimonionさんが日本神話のお話をしてくださっているように、人間が行ってきた営みや流れを象徴的に神話化するというのが基本であったり旧約聖書のように色々な古い神話の寄せ集めだったりして、乱暴な言い方をすれば人間の諸活動の寓話化ですよね。

 

これも諸説あるんですが、僕が今まで勉強してきた限りだと全てではないにしても神話の元は寓話だと思っています。つまりはその神話がトートロジーみたいになってしまいますがブッダの教えのように説話化されるというのは「我々はそうしてきたのだ」という民族意識の表れでそれが民族的アイデンティティになるからこそ「我々はこうやってきた」というようなことの寓話が神話になるんですよね。

 

ユダヤ教の場合、旧約聖書をガチの歴史として捉える場合もあるので、まさに民族的な寓話=神話ですよね。ベースが何らかの物語なのではなく民族の歴史になっているからあそこまで帰依できるのかな?と思いますね。まさに我々はそう生き抜いてきたという民族の歴史ですからね。アニミズムのようなものとはそもそものベクトルが違うんですよね。

 

ところで日本の思想家で宗教っぽいことを言う人を避けるっていうアレルギーは凄く理解できます(笑)でも京都学派は所謂、日本の哲学でフランクフルト学派のように独特の学派を形成したのはどれなのか?っていうと正直、京都学派ぐらいしか無いんですよね。

 

僕が京都学派に感嘆したのはその知的水準の高さも当然ながら、大半の宗教学者や哲学者が経験していない実践をしてきた人たちが少なからずいることなんですね。西田は鈴木大拙とマブダチであったり何より20代ぐらいの時に相当長い期間座っていたんですね。禅の只管打座なのですが。ただ京都学派といっても色々あるので、僕が特に感嘆した哲学者は西谷啓治と上田閑照です。上田閑照は京都学派の研究者なので京都学派と言えるかどうか分かりませんが、禅を鈴木大拙に師事していたと思うんですね。確かなのは上田閑照も20代の頃にずいぶんと長く座っていた人なんです。

 

そういった実践や体験はどこまでのレベルかは分かりませんが、ただ頭と論理でやっている人間と違って神秘的なものの実践をしていた人間が研究する神秘思想や宗教思想となるとやはり深みが違ってくるんですよね。

 

あの時代だと神学ならブルンナーとかゴーガルテンとかバルトとかティリッヒといったような宗教哲学の連中をメインに研究するというのが言わば現代神学の研究のようなものだったはずなのですけど西谷啓治に見られるような京都学派の研究対象はそういう教義学や神学といったつまらないものではなく、例えば禅と直接体験のような言葉よりも体験が先行するような体験を重きに置いたものを研究していたというのが世界でも類を見ないと勝手に思っているんですね。何しろ欧米の当時の哲学者なんて西洋哲学一色で体験なんて言えばオカルトじみたものとか神秘思想なんて学術的熟考に値しないというような感じですからね。

 

もちろん禅は鈴木のおかげで欧米に広がりますがそれは戦後の60年代以降なので、戦前に只管打座や行をやっていてなおかつドイツ神秘思想を研究していた人間なんてあんまりいないだろうというのが僕の考えです。だからこそ京都学派というものが形成できたんだと思いますね。西洋哲学や神学の後追いだけでは世界に誇れる学派なんてできませんからね。ニューアカなどが顕著ですけど日本の哲学なんて輸入してラフに紹介するだけのもので思想と呼べるほどのものなんて皆無ですよね。

 

でも京都学派はなんていうんでしょう、第一発信なんですよね。だから西田思想とか京都学派の思想という固有名詞で呼べるような独特なものになっているわけですね。是非、読んでみてください。

 

ホントにおっしゃるように僕は割と最初から哲学をやるときに近代って何なんだ?っていう意識がありましたが、結果的によくあるポストモダン的な相対性やある種のニヒリズムに至ったわけですが、daimonionさんがおっしゃっている意味での宗教なども踏まえた近代って何だろう?っていうことになると自ずとそれはあたかも普遍を考えてきたかのように錯覚していた自分が極めて民族的な意識に目覚めざるを得なくなるわけですよね。といっても右翼系のナショナリズムではなく文化的な意味での絶対的な他者性や違いを意識せざるを得なくなるんですよね。

 

ただ僕が京都学派を評価するのは京都学派は戦前からそういう意識があったので形的に戦争に加担したかのように見えて後に色々と批判される原因になるのですが、ポジティヴに考えればくだらないポストモダンなどを超えた先を見据えたものだったんだと思うんですね。安易な普遍ではないからこそ自ずと自国の国粋主義とも捉えられるようなものが出てきてしまうわけですが、保田与重郎なんかもそういうことで戦後批判されますが全く的外れなんですよね。彼らは真の近代的思想家だったんですよね。

 

戦後になるとそういった民族的なものがタブーという風潮ができて、あと捏造された戦後民主主義のような概念があって、それに海外の左翼運動などもあって日本の思想は完全に死んだんですよね。所謂、輸入とコピペとニューアカに見られるような衒学趣味ですね。真理という概念がバカバカしいかニューエイジ臭いレッテルが張られてしまうんですよね。

 

でもそこはdaimonionさんがおっしゃるようにSNSなどのリテラシーの問題もあるので、例えばオウムのポワという概念にしてもチベット密教の思想の一部のただの乱用なのですが、リテラシーレベルが低いとカルマが悪くなる前に殺したほうがいいみたいなぶっ飛んだ論理にもなりかねないので、オカルト的なものを排除しておかないと乱用する輩と騙される輩がいるから科学一辺倒で行くしかないというのは分かるんですよね。

 

でもそれは言わば統治とか社会システムの話なのであって、真理そのものから見れば全ては相対的ですよね。完全なオカルトからよく分かってない神秘じみたものも含めてすべてはただの概念です。そこに恣意的なラベリングをしてしまうのが非常に危険で、まぁ危険な可能性があるものは排除しておくというのは安全ですが、真理の追究という面から見れば困ったものなんですよね。

 

だから僕は宗教的な気づきからいったん恣意的なラベリングを外して考え直すということをしてきたんですよね。結果的に世界の見え方もだいぶ変わりましたし何より感覚が変わりましたね。

 

そこがまさにdaimonionさんが最後に書いていらっしゃるニュートンってオカルト好きだったの?ありえなくね?的な見方がむしろ不思議っていうことなんですよね。言わずもがな科学者でオカルトなども含めた超自然的なものに影響を受けていない人なんていないわけですよね。

 

ニュートンは主に錬金術だったと思うんですが、他にもESPやら霊感やらエーテルやらって色々な概念がありますけど、ちゃんとした科学とそうではないものというのを分けられたのが現代なのであって、そういった意味で極端なまでの機械論的な科学的な世界の見方というのが形成されたのは近代なんですよね。マックス・ウェーバーが脱呪術化などと呼ぶものがそうですが、合理化だけを進めた結果、ある種昔の人は当たり前にリテラシーとして持っていたオカルトも含めたような知識が「非科学的」とラベリングされることで無用なものになるというのはそういった非科学的なものに無知になるということでもあるんですよね。

 

リテラシーって有用な物事のことだけを知っておけばいいわけではないのは明らかで、それが進み過ぎると呪術的なものに丸腰になってしまいますよね。だから逆に新興宗教のようなものが力をつけていくのかもしれませんね。そういった意味でも分別のあるちゃんとした宗教リテラシーって必須ですし、個人的には色んな形はあれど信仰心ということの重要性というのは改めて色々と気づかされた面がありました。

 

機械論的で唯物論的であるということは自然も含めた諸行の一面しか捉えられないんだなというのと、これも一種のイデオロギーなんだなっていうことですね。機械論的唯物論的科学論的な観点から見れば宗教がイデオロギーそのものなんですが、逆に宗教側の世界観を知ってみると科学というのもまたイデオロギーの一つでしか無いんですよね。

 

何が有用で何が無効か?ということだけで人間が考えやすくなるのも言わば合理化の必然なわけで、それが個人の価値観や生き方にまで影響をしてくるんですよね。何が自分にとって有用で何が意味がないか?というだけの世界観なんて相当貧しいですよね。

 

合理性からは考えられないことをやるのが人間ですしそこが人間らしさなので、ロボットのような人間が増え続けているというのもそれは価値観とリテラシーの問題なんであって、ただそこを宗教が何かできるのか?というと影響力がある宗教というのは既存の形骸化した宗教だけなので必然的に不可能になりますよね。

 

思想でもまぁ無理でしょうね。だから僕の場合、極端なんですけど一気に原始キリスト教に戻るというか、神と自分との関係性において世界を捉えるし神やキリストを模倣して生きるということが、まさにdaimonionさんがおっしゃっていたようにキリストはめちゃめちゃロックなので、ある種の反体制というかレジスタンス的な生き方なんだと思うんですね。これはなんか自分で言うのもなんですが散々革命思想とかにかぶれてきた自分が言うんだから間違いないって思ってますね(笑)

 

今の自分で言えば見えないものへの感覚を研ぎ澄ますとかってオカルト臭いですけど、簡単に言えば直感を磨いて直感で生きていくのか、今の機械論的な世の中に即したようなアルゴリズム的な生き方をするのか?っていうところなんですよね。そこで究極的には霊性というのが主体なのであって、それは言わば魂ですよね。だから魂を磨いていくということになるわけですが、これは宗教関係なくソクラテスなども言っていたことと同じで色んな宗教に通底するものなんですよね。そういった意味での精神性とでも言うんでしょうかね。形骸化された戒律とか宗教的なルールやタブーなどとは全く関係のない世界ですね。

 

そういった世界観も持てばまさにdaimonionさんがおっしゃっているようにニュートンが様々なものからインスパイアされて物理学を基礎づけたのと同じで、合理化により無効化されたものにも有用性はないかもしれないが意味はあるわけですよね。人間は意味に生きる動物ですから、そういった意味抜きには生きられないはずなんですよね。でも機械論的世界観があらゆる認識を硬直化させてしまっていると思いますね。

 

また長くなってしまいましたがこの辺で失礼します。返信がありましたらまた是非、お願いします!